Archilab新建築記載

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雑誌新建築12月号にてArchilabのレポートがあります。
そこに菅原大輔が前田茂樹氏と共同設計した Body LandSpaceが記載されています。

Architecture Space / 建築, Event Lecture / イベント, News / 新着情報 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 11, 2006 10:51 | TrackBack (0)

L’hopital Copgnac-Jay

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伊東豊雄さん設計、L’hopital Copgnac-Jayのオープンハウスに行く。
現場管理を行っていた高塚さんに地下階、一階、基準階をご案内いただいた。

巴里15区の一区画がその敷地。 中庭形式でその区画を囲うのではなく、
周辺に点在する隣地の庭を繋ぐように庭が配置されている。 
機能はがん治療、終末医療、自閉症の子供用施設の三つ。
街路に平衡しながら庭を挟むように薄い建物が配置され、
中庭に面して3つのボリュームがそれにへばりつく。

高塚さんが「借景しあう庭」と呼ぶ、敷地内を貫通する庭と
隣地の庭が作る視覚的な「大きな都市の森」は非常に上手く融合されていた。
これが敷地周辺の環境向上にかなり役立っている。
このように隣地の要素を操作対象としてとり込む計画は、
東京のように常に変化するアジアの都市では短期間しか継続しない。
まさに、強く、安定した町並みを持つ巴里/欧州ならではの計画といえるだろう。
8年に一度、隣接する家が建て替わる東京の住宅地で同じことをやっている
日本人建築家は、環境変化による空間の破綻をどう受け止め、どのように責任を取るのであろうか。

内部を歩いた印象は非常に日本的な空間であるということ。 
原因は窓の設定高さ。立った姿勢の視点やや上部から膝の少し上までと
非常に低く窓が切ってあって、目線が自然と下方に向き、庭を眺めることになる。
それはつまり、庭=季節を内部空間の構成要素として取り込むことを意味する。
庭は連続的でありながらも様々な性格の庭が用意してあるので、
各病室もそれによって色付きが異なっているのだろうと想像した。

最近考えている「予想できる素晴しい空間」と「予想できない新しい空間」の違いを見た気がする。 
現在ある技術、システム、素材を再編集、再構成して作る空間は予想が出来る素晴しい空間を作る可能性を秘める。
 しかし、どうなるか分からない、何が起こるかわからないが、
検討し、実験して生み出される予想できない空間というのもある。
僕が求めるのは明らかに「新しい空間」だと再確認した見学会であった。

最後に、高塚さんありがとうございました。

Architecture Space / 建築, Event Lecture / イベント, News / 新着情報, Paris / パリ, Urbanism_City / 都市 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 10 29, 2006 8:01 | Comments (1) | TrackBack (0)

+ARCHILAB 2006 JAPON

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菅原大輔が前田茂樹氏と共に欧州の建築展覧会 ARCHILAB 2006に参加いたします。
模型や図面の展示ではなく、「庭園」という空間そのものを展示する貴重な機会をいただきました。
10月20日16時、フランス・オルレアンのARCHILABにおいてオープニングイベントが行われます。
ARCHILABはオルレアン市主導で行われる、フランス内外の建築家を紹介するイベントです。
 すべてのコレクションは買い上げられており、現ポンピドー・センターの建築・デザインのチーフキュレータ フレデリク・ミゲルーが文化省の参事官だったときにその収集が始められました。
第7回目のARCHILAB 2006は世界でも注目を集める日本人建築家の特集です。
上記HPのJardin Japonais / Japanese gardenをクリックしていただくと菅原大輔と前田茂樹の作品紹介が御覧頂けます。

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Body LandSpace = Landscape x Space + Japan
「フランス的」と「日本的」
フランス、オルレアン市で開催される代表的な建築の展覧会「ArchiLab 2006 Japon」のための作庭計画。ArchiLab敷地内にある南北二つに分けられた植込みとその周囲が本計画地である。与条件より白紙から構築するフランス庭園のような作り方も考えられたが、既存を発見し、ズラし、拡張していくような日本庭園の作り方を目指した。

「観賞」と「体感」
既存の南北の植込みは基壇として用意され、そこに植えられた花や樹木は個々のオブジェのように鑑賞の対象として置かれている。 計画地の地面、壁面にそれぞれ白砂、植栽を配すことで場を包み込む面群を一体化し空間化した。これによって観賞の対象としての植込みから、体感される空間=庭園の構築を目指した。

「運動」と「状態」
庭園に起伏をもった市松模様の鏡面群を新たに挿入する。鏡面群は白砂の上で水面のように空や植物を写しだす。遠景では日本庭園の岩のように固体として存在するが、体感者の運動によって地面を覆うように面になり、さらに写像をもって画素のように粒子化する。

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Architecture Space / 建築, Art / 美術, Event Lecture / イベント, News / 新着情報 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 10 21, 2006 9:40 | TrackBack (0)

頭の体操

土曜日
久しぶりに連絡を頂いて松田達さんとスイスで働く木村浩之さん
3人でラオス料理のお店へ。
お互いの自己紹介や近況報告をさせていただき、その後場所を替え一杯。
異国での建築教育制度、思考方法、設計プロセスからコルビジェに至るまで
海外経験者としての面白い考え方を伺うことが出来た。

久しぶりに「建築」を肴に飲んだという感じです。
意識して考えながら喋るといい頭の体操になって
脳の眠っていたどこかが活性化された感じ。
僕もそれに乗せられるように幾つかお話する。

僕が最近気になっていること、いや驚いたのは
日本人と仏蘭西(欧州ともいえる)人の単位感覚。
僕が前に勤務していた仏蘭西人建築家の設計事務所ではエスキスを「メートル」単位で考え始めた。
そして詳細設計等の時点でもCAD上の基本単位は変わらず「メートル」に設定されていた。
つまり、それ以下の長さは基本単位を「分割したもの」である。
今は仏蘭西にある日本人の事務所で働いているんだけど単位は全て「ミリ」で扱われる。

つまり、同じ50センチを思考するとき、
・基本単位を分割した「0.5メートル」と
・ 基本単位を500倍した「500ミリ」
と言う違いが出る。
これはスケール感覚や視覚的/触覚的建築の作り方にかなり作用している。
全ての部分に焦点が当たっている日本建築の緻密さは
こんなところから来ているのかもしれない。

比較の対象として「全体性が持つ魅力」を好む仏蘭西建築を取り上げると納得行くけど
欧州諸国でも詳細部分の納まりが美しいスイスも同じ「メートル」志向らしい。
「全ての部分に焦点が当たる」ことと「収まりが美しい」ことが
空間の質においては必ずしも同じことではないということかな。

あと、聞いていて印象に残っているのは木村さんの欧州人の「面の扱い方」。
欧州人は、空間に出てくる「細々した物」(電気、排気口、吐き出し口、消火設備など)を
面の要素として自覚的に捉え、面の中に整理整頓して置いているという。
確かに日本人の作品で「これほどこだわっているのに、ここにこれが出てくるのか?」
と言う感じがする。
つまり、日本人は空間を抽象的な存在として捉えていて、「空間」をデザインした後に
実際の使い方や法規的に必要なものが別の次元で「空間」に出てくる感じ。
そんなときはちぐはぐな空間になる。

僕が上記で「細々した物」と書いていること自体、そんな日本人的意識を表している。
完全には一般化できないけど非常に頷けるお話だった。

Architecture Space / 建築, Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 5, 2005 9:25 | TrackBack (0)

雪のエッフェル・耐震問題?

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今週は初雪が降った。
手袋をしていてもその上から氷の矢がプスプスと刺さるような、散歩しているだけで「かき氷」を食したあとの「キーン」とした感じが、暗雲と共に僕らの心に忍び込む冬。
とうとう薄暗く、芯から冷える「憂鬱な巴里」が始まった。

そんな中、建築技術者Effeleを思い浮かべながら、雪のEffeleを塔を眺めた写真。

日本では耐震設計に絡む「建築士の責任」などが話題になっているということはなんとなく耳に入っている。
これを聞いて一級建築士の一人として恥ずかしさと怒りを覚えた。また、建設途中の検査でなぜこの事態が食い止められなかったのか?と、行政監視機能に対しても疑問を覚えた。しかし、それと同時に、日本の建設・建築業界で起こるべくして起こった事件だとも思った。

その前提として、「建築家・建築士」と言う職能を簡単に説明してみる。
「建築」にまつわる業務(建築物の設計、管理)を行う「建築家」と、建築士法所定の国家試験によって行政機関(一級の場合は国土交通大臣)から建築家兼高等技術保持者として免状を交付される「建築士」。
どちらも「建築」と言う言葉が付くが、元々日本語に存在した言葉ではない。江戸末期に海外から概念と共に輸入された言葉「architecture」の訳語である。加えて、我々「建築家・建築士」は日本の建築の歴史から見れば、最近出来たばかりの職能である。それまでは「設計・施工」を行う、大工達が僕らの場所にいた。その職能は現在も日本特有の「ゼネコン」と言う形で継承されている。

日本では自称すればみんながなれる「建築家」含めると話がややこしくなる。ここでは国家資格保持者の「建築士」に限定して話を進めたい。
建築基準法では、施主(消費者)/建築士/施工者の独立した「三角関係」を奨励している。これは小学校で習った「三権分立」に近いあり方で、建築士と施工者の関係を分節し、専門知識のない施主(消費者)を保護するためのものである。
この状況を考慮すると、日本の現状では大きく3つの事柄が原因として挙げられる。

1番目に、最終的な消費者である「住人」が建築性能のチェック機能から排除されている点。「三角関係」でいう「施主」が、「住人」ではなく建築士・施工者と協力に結びついた「デベロッパー」となる。専門技術を持たない実際の「住人」は見えないブラックボックスの中で作成された「性能表示」を信じるしかない。「デベロッパー」は、住空間を綺麗にラッピングされた「商品」として扱う。これは住空間を他の品物と変わらない「商品」として、経済の中で流通させる重要な役目をはたしている。一方で、住人を建築が生成される場所から遠ざけ、知識のない消費者に変えてしまう危険性を持っている。

2番目に、住人の建築に対する無関心さがあると思う。
ヨーロッパでは都市や建築に対する一般層の意識が非常に高い。街づくりや空間に対して「あーだ、こーだ」と議論している。少なくとも思考する対象にはなっている。もともとの家が汚いということもあるが、パリだと新しい住居に引っ越した場合、まずBricolage(日曜大工)することが多い。それは空間を自分らしくカスタマイズしていく行為、つまり着慣れない洋服を自分の体にフィットさせていくような行為である。住空間を「ただの箱」とは考えず、「住人に特性を与えられた場所」とする精神がBricolageという行為に現れている。日本の場合、建売住宅産業が発展していることから分かるように、「ただの箱」としての住空間を求める消費者が多い。つまり、建築に関わる様々な手続きを排除して、一つの「完成された商品」としての住空間を手に入れたいという思考である。これは住空間に限らず、全ての(ことにフランスに比べ)サービスが成熟したことで、幼稚化していく日本人全体の気質に関わる問題だろう。

最後の3番目は、設計が「施工のおまけ」として扱われている点。
日本の建物の文化は歴史的に見て「大工制度」によって支えられてきた。棟梁の顔は見えていたし、施主は皇族であったり、貴族だったり、武士達だったりした。日本の伝統建築が素晴らしいのは、棟梁達が頑固で気高く、仕事に誇りを持ってた(?)からかもしれない。一方で手抜きが発覚したらその場で切り捨てられる緊張感もあっただろう。
その後、日本は様々な面で成長をとげ、国民全体の生活水準も向上した。これによって「建築」の目的は「権力」から「民衆」と民主化されていた。
その過程でも「設計・施工」が一体化した「大工制度」の部分は残った。それは一昔前、「設計施工一環業務」のゼネコンが使っていた「うちは設計料は取りません」という営業文句につながる。
実際は全ての技術的水準と空間としての質を保証するために、「建築士」が膨大な労力を使っているはずだ。しかし、見えない「設計」と言う過程は数値化された価値を獲得することなく、施工の裏帳簿からその業務代が支払われた。
つまり、一般的に義務も権利も、もみ消された存在だった。今回の事件は重大だ。しかし、実状として建築士としての「責任」だけを追及しても問題の解決は難しい。 もみ消された「義務=責任」を明確にしつつも、我々の「権利=設計業務の存在と価値」が一般的に認知されなければ、構造的な解決は図られないだろう。

他の理由としては、建築士の質のばらつきもあるだろう。これは激しいが定量的に見分けることは困難だ。ちょっと乱暴だけど、数値化された違いを言えば、近年登録された一級建築士は、合格率6%の超難関を突破している。一方で、高度経済成長期の時代はみんなが取れた「一級建築士」である。近年の合格者とそれ以前の免状保持者で、公的に何か区別化を図らなければならないとも思う。

設計競技の量、国民性、経済的問題、社会性の問題・・・・・。今回の事件を生んだ原因は様々だろう。
しかし、時間が経ったら重大な事件を忘れる、いつもの日本のようにはなって欲しくない。この事件を、状況を問題を改善する区切りとし、建築の制度や社会的責任を見直すだけでなく、「国民一人ひとりが建築行為にそのように関わるべきか?」「建築や都市がどうあるべきか?」を一般レベルで議論して欲しい。これが日本が建築先進国へ発展していく過程であって欲しいと願う。

Architecture Space / 建築, News / 新着情報, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 11 28, 2005 11:52 | TrackBack (0)

国際指名設計競技の結果

前に日記で、国際指名設計競技に参加したことを書きましたが
その結果がARCSPACE.COMに記載されています。
結果はすいぶん前に知っていたんだけれども、一般メディアに発表されたので
これで堂々と書けます。

ベルギーのKnokke-Heist市が施主。
Knokke-Heistにあるカジノを、近くに建つホテルと関連付けて改修するというも。
カジノは『Magritteの部屋』という、彼のフレスコ画がある部屋を内包している。
参加者は
STEVEN HOLL Architects(アメリカ合衆国)
ZAHA HADID Architects (イギリス)
Neutelings-Riedijk (オランダ王国)
Jakob+Mcfarlane(フランス共和国)

他の3社はEl Croquisで作品集が出るような、既に世界トップクラスの事務所。
その中で、うちはよくやったと思う。一方でJakob+Mcfarlaneの案では勝てないだろうと思ってもいた。

今回は得意の湾曲ボリュームに精神性が足りていなかった。
言い換えれば、形態遊戯に終始してしまったところがある。
いつも改修設計競技だと、既存のある要素を抽象化し、新築部分にそのリズムを導入するんだけれども、
今回は既存のカジノに対してあまり配慮されていない。

4案をざっくり分類すると、『塊型』のZAHA、JAK+MAK案 / 『タワー型』のHOLL、N+R案。
ARCSPACE.COMにあるように、結果は勝者STEVEN HOLL Architects。

敷地の眼前に広がる水平線。これに拮抗するように建つSTEVEN HOLLのタワー。
敷地周辺にある既存6,7階から、海へ抜ける眺望に削られるように形態が決められているらしい。
でも、これは修辞的な説明で少し胡散臭い。
タワーがこれだけ特殊な形態をしているなら、堂々とモニュメントとしての正当性を言ったほうが良いのに。
市だって、このタワーを『新しい観光地のシンボルになりうるもの』と捉え、選んでいるはず。
Tower/Porosity/既存の3つを、全く異なる「建築形態・表面群」で構成したのかは気になるところ。
例えば、既存のホテルとカジノをつなぐ導線的建築部分が、なぜ Porosityなのかとか。
もしかしたら『ノリ』だけかもしれないけど。

設計競技は結果的に負けてしまったけど、 こんな人たちと戦えて良い経験になった。
次はそんなに緊張せづに戦えそうだ。

個人的な話としては、週末、風邪でダウンしてます。

Architecture Space / 建築 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 9 19, 2005 5:05 | TrackBack (0)