ルーヴル@paris

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はじめて「Musée du Louvre(ルーヴル美術館)」を訪れたのだが書くべきことがあまりない.とにかくいろいろな意味で圧倒されてしまった.ホームページも充実していて日本語版もある.

I.M.ペイ,ガエ・アウレンティ,J.M.ウィルモットYves LionLorenzo PiquerasMichel GoutalFrancois Pin,Catherine Bizouardなど,近年の改修を担当した建築家は多数に及ぶ.その中でもペイのピラミッドは最も有名であるが,後はあまり知られていない.
館内があまりにも巨大なために絵画部門の展示室を見るだけで精一杯だった.それだけでもドゥノン翼の2階,シュリー翼とリシュリュー翼の3階を占めている.おもしろかったのは,予想以上に各展示室のインテリアが異なっていることだった.現在の美術館が成立したのはペイの改修によるもので,展示室が統一されているのだと思っていたのだが,実際には前述のように多くの建築家が関わっており,改修時期などによって異なるさまざまなデザインの展示室が連結されていた(参考リンク:旧ヴァーチャルツアー).
壁の色は,主にフランス絵画は白(第2次フォンテーヌブロー派)か赤(シャルル・ル・ブランの間),ネーデルランド絵画は緑(16世紀前半),オランダ絵画は薄紫(レンブラントの間),イタリア絵画はグレー(グランド・ギャラリー)と使い分けられている.床はフローリング(モリアンの間・ロマン主義)か石貼りの白(ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの間),黒(ヴァトーの間)であったが,特にルールはないようであった.天井は,最上階に位置する多くの部屋がトップライトを持ち,ヴォールト状(グランド・ギャラリー)のところもあり,光天井(モナリザの間)もさまざまなデザインがあった.もちろんヴォリュームの違いによるところも大きいだろうが,改修を担当した建築家の個性が出てしまっているためか,展示室によってかなり印象が異なる.これだけ巨大であり,しかも歴史のある美術館であるから,さまざまな考え方に基づいた展示室が並列してしまったのだろう.更に今後もさまざまな改修計画があり,もちろんSANAAによる別館の計画もよく知られている.
絵画部以外をしっかり見たわけではないのだが,ケ・ブランリと同様に博物館のコレクションと呼ぶべきものも多くあるようだ.どうしても日本の慣習に従い美術館と博物館を分けて考えてしまうのだが,欧米ではmuseum(フランスの場合はmusée)と1つの呼び名が使われているだけである(強いて言えば,美術館はart museumと呼ぶべきだろう).過去から現代に至るまで美術の歴史は一繋がりであって,そこには断絶がなく,それらを収める建物の呼び名にも断絶がないということだろうか? 一方の日本では,国立博物館国立美術館がはっきりと分かれているように,そこに断絶があるように思える.しかし,その線引きを具体的に示すとどのようなことになるのだろうか? そして,それらの展示空間にもまた線引きが行われるのだろうか?
ちなみに日本では,ルーヴルと大日本印刷によるミュージアムラボというプロジェクトが開始されている(参考リンク).情報社会における作品鑑賞の新しいあり方を模索する試みのようだが,どんなものだろう?

美術 | Posted by satohshinya at November 14, 2006 23:00 | TrackBack (0)

アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ@paris

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ジャン・ヌーヴェルの最新作である「Musée du Quai Branly(ケ・ブランリ美術館)」に入るためには1時間近く行列に並ばなければならなかった.アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカの美術品がルーヴルには収められていなかったことから,それら非ヨーロッパの美術品を収める国立美術館として構想されることになった(2000年よりルーヴルでも展示が開始された).一時は「原始美術美術館(Musée des Arts Premiers)」と名付けられることも検討されたそうだが,結果的には無難に敷地の名前が付けられることになった(参考リンク:美術館紹介国立民族学博物館原始美術という呼称鈴木明さんロハス美術館旅行記写真).

建築についてはあまり積極的に書くことがない.エントランスから展示室に至る意味不明な180mの長さのスロープ,鑑賞者に不親切な迷宮のような暗い展示室と狭いボックス群,構造表現として成立しているとは思えないピロティの2本の四角い柱など.唯一,エントランス部分に地下から上階までを貫くガラスのシリンダーがあって,それが楽器を納めるオープン・ストレージとなっていたことはおもしろかった.そのシリンダーにしても,展示室などの他の空間と効果的な関係を持つことができそうなのだが,そのような意図が見られなかったことが残念だった.
一方で周辺との関係については,これは「カルティエ現代美術財団美術館」(1994)の拡大版であると思えるが,エッフェル塔近くのセーヌ川沿いにありながら,巨大なガラス・スクリーンを立てて内側に森を作り出している.そして,そのランドスケープはピロティを介して反対側の街区まで連続している.さすがにこんな一等地に,こんなバカげた提案をするのはヌーヴェルだけだろう.敷地の一辺が旧来の街区に隣接しているが,ごていねいに中庭を形成するように建物が配され,そこから森に向かって建物の外形が崩れてゆく.
ガラス・スクリーンと旧来の街区が連続する立面では,アーティストであるパトリック・ブラン日本語サイト)による多種多様な植物による壁面緑化が調停役を担っている.そして,敷地内の森はランドスケープ・アーキテクトであるGilles Clémentによるデザインで,ピロティと関連付けながら敷地内に起伏を作り出し,ここもまた多種多様な木々や植物が渾然一体となって植えられている.つまりこの2人によって,ヌーヴェルのアイディアを更に加速して実現させることに成功している.だからこそ余計に,建物自体のデザインがあまりにもお粗末に思える.森の延長として木々のグラフィックをあしらったガラス・ファサードも野心的な試みであるが,エクステリア,インテリアともに期待以上の効果を上げられていない.結局,ショップなどが入る建物に描かれたアボリジニ・アーティストによるグラフィックのような,コラボレーションによる試みのほうが断然におもしろい.
もちろん,一見の価値がある美術館であることには間違いはない.しかしここは,いわゆる美術館と呼ぶよりは,日本では博物館と訳すべき建物になるのだろう.常設展示の上階には2つの企画展示スペースがあり,Expositions "Dossier"では「Nous Avons Mangé la Forêt」展と「Ciwara, Chimères Africaines」展,Exposition d'Anthropologieでは「Qu'est-ce Qu'un Corps?」展を開催中.これらの展示室もロフト状になっているため,長大な展示空間は間仕切りのない1つの空間となっており,床には部分的に勾配も付き,まさに森をさまようように展示品の中をさまようことになる.しかも,薄暗いジャングルのような森の中を.つまり,展示品がよりよく鑑賞できる空間を作り出そうとしているよりは,いかなる空間に展示品を配列するかというところにデザインのポイントが置かれているということだろう.その結果は残念ながら成功しているとは思いにくい.エントランスからの長いスロープの下もギャラリーLa Galerie Jardinになっていたが,まだ使われていなかった.
あとはこのランドスケープや壁面緑化が,10年後,50年後,100年後にどのような成果を上げているか,そのときにこの場所の真価が問われる.それを楽しみにしよう.

建築, 美術 | Posted by satohshinya at November 10, 2006 12:19 | TrackBack (0)

トップライト@paris

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チェイルリー公園にある「Musée de l'Orangerie(オランジュリー美術館)」は,ジュ・ドゥ・ポームと対称の位置にある.ほとんど同じ外観を持つ建物だが,ジュ・ドゥ・ポームは室内球戯場から美術館へ,オランジュリーは温室から美術館へと機能転用された.そもそも室内球技場と温室が同じデザインであったわけだから,それらがどのように転用されようが大した問題ではなかったのかもしれないけれども.

この美術館ほど興味深い変遷を辿ったものも少ないだろう.1852年に温室(オランジュリー)として建設され,ジュ・ドゥ・ポーム同様さまざまな用途に利用された後,1927年にモネの『睡蓮』を収容する美術館としてオープンした.改修はCamille Lefèvreによる.その後,1965年にOlivier Lahalleにより大改修が行われ,更にOlivier Brochetによる6年に亘った大改修を終え,今年の5月に再オープンしたばかり.
2つの楕円形の部屋に常設された『睡蓮』はあまりにも有名だが,これは必ずしもサイト・スペシフィックな作品というわけではなさそうだ.はじめにこの連作自体があり,その設置場所をモネが探していて,一時は現在ロダン美術館となっている建物に納めるという計画もあり,その時点では展示室は正円であったそうだ.その後オランジュリーが選ばれ,モネ自身が構想した,布張りの天井から自然光を採り入れた現在の構成と同じ「睡蓮の間」が,彼の死後に完成された.作品に合わせて空間を作ったという意味では,作品と空間は切り離すことのできないものとなっているが,空間に合わせて作品を描いたわけではなく,外部との関係は天から降り注ぐ光だけである.
しかし65年の改修では,現在ではモネの作品と共にこの美術館の核となっている印象派コレクションが寄贈されたことにより,展示スペースを増加する必要が生じ,こともあろうに「睡蓮の間」の上部に展示スペースを増築してしまった.27年当時の断面図を見ると,確かに「睡蓮の間」の天井高さはとても低い.しかし建物自体は優に2層分の高さを持ち,そこが天井裏のスペースであったわけだから,確かにもう1層分のスペースは十分確保できただろう.その結果,もちろん『睡蓮』はトップライトを失った.
そして2000年になり,再び「睡蓮の間」に自然光を取り戻すため,2階に展示されていた作品のための展示室を地下に増築し,改めて「睡蓮の間」の上部に空間を確保する大改修が開始された.ここも国立の美術館であり,建築技術の進歩によって可能になったことなのかもしれないが,本当によくやるよと言いたくなる.さすがにその甲斐あってか,本当に「睡蓮の間」はすばらしい展示空間となっている.改めて自然光の下で作品を鑑賞することの重要性を再認識できる(参考リンク:今回の改修学芸員インタビューこれまでの経緯65年改修時動画,美術館紹介).
一方で,この『睡蓮』は単なる壁画であるとも言えるだろう.「睡蓮の間」は素晴らしい展示空間であり,『睡蓮』を展示する最適な空間であるが,この空間そのものを作品と呼ぶところまでの意識はモネにもなかったように思える.その意味では,これはインスタレーションとは呼べない.
と,ここまで書いてみて,ふと磯崎新の「第三世代美術館」を思い出す.《この内部は,特定の作品のための,固有の空間となり,展示替えをするニュートラルなギャラリーではない.これを比喩的に説明するには,寺院の金堂を思い浮かべればいい.そこでは仏像がまず創られており,建物はそれを覆う鞘堂として建設された.美術館という枠が拡張して,美術品と建物が一体化している.……それを美術館という広義の制度の展開過程に位置づけることも可能だろう.それを第三世代美術館と呼ぶことをここで提唱したい》「奈義町現代美術館建物紹介」 この意味では,オランジュリーは第三世代に当てはまる.しかし,磯崎の文章が《それぞれの作品は,現場制作(in−situ)されます.Site Specificと呼ばれる形式です.内部空間の全要素(形態・光・素材・視点・時間…)が作品に組みこまれているので,観客はその現場に来て,中にはいって,体験してもらわねばなりません》と続くとき,特定の展示場所に対する意識がなかったことが,第三世代とオランジュリーを分けると考えられるだろう.

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今回の改修ではコンクリートの打ち放しがインテリアの随所に現れており,エントランスや「睡蓮の間」の外観にセパ穴が並んでいる.地下の展示室では,トップライトが確保された通路状のスペースの展示壁面がやはり打ち放しで,そこにルノワールなどの印象派絵画が展示されている.試みとしては理解できなくもないが,さすがにセパ穴は塞いであるものの,コンクリートの打設がお世辞にもきれいとは言えないし,絵を架ける位置が限定されてしまう.初期の安藤忠雄のような繊細な表情を持ち得るのであればよいかもしれないし,コレクションの常設なので展示換えを行わないのかもしれない.それにしても現代美術ならばまだしも,国立美術館の印象派絵画をこんな壁面に展示するなんてたいしたものだ.

美術 | Posted by satohshinya at November 8, 2006 16:51 | TrackBack (0)

アプローチ@paris

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「Maison Europeenne de la Photographie Ville de Paris(パリ・ヨーロッパ写真館)」もまたマレ地区にある1706年に建てられた邸宅に増築を加えた建物.1996年にYves Lionの改修によりオープンした.

どの展示室も真っ白な壁を持つが,床は邸宅部分がフローリング,増築部分が石と使い分けられている.邸宅は既存の窓が並び,増築は展示室のために窓のない大きなボリュームとなり,その対比を見せるというよくあるパターンのファサードだが,邸宅が前面道路側に庭を持つことから増築にもそれを延長させ,その境界にアプローチを通す配置計画がよい佇まいを生み出している.内部と庭の関係については,階段に大きな窓があるくらいで,もう少し外部との関係が取り込めていれば更によかったろう.
その増築部分の前庭は,田原桂一による『Le Jardin NIWA』(2001)と題された,白砂と黒砂(?)による庭にガラスのオブジェが置かれた作品となっている.個展を行った際に設置されたようだが,なぜここに? 開館時の写真を見ると,アプローチの左右に同様な植え込みが連続していて,庭の間を通り抜ける状況が明確であったようだが,現在は左右が別物になってしまっている.庭のデザインとしてはともかく,全体の関係としては以前の方がよいように思える.
「Un été Itarien」と題して,イタリアに関する4つの展示が各階で行われていた.2階のSalle Hénault de CantobreではPatrizia Mussaによる「La Buona Ventura」展,3階のGalerie ContemporaineではGabriele Basilicoによる「Photographies 1980-2005」展,4階のCollection Permanenteではイタリアのコレクターによる「La Collection Anna Rosa et Giovanni Cortroneo」展(参考リンク)がそれぞれ開催中.1階のカフェの奥にあるプロジェクトルームのようなLa Vitrineでは,Francesco Jodiceによる「Crossing」展をやっていたが,ここは大きなガラス窓を持ち,アプローチのある道路とは別の道路に直接面していて,ほぼ等身大の通行人の写真と相まっておもしろいスペースとなっていた.帰りに外側から見ようと思って忘れてしまったけれども,どんなふうに見えたんだろう?(参考リンク:
もう1つ,Ángel Marcosによる「À Cuba」展が地下のLes Ateliers,La Cimaiseで開催されていた.ヴォールト天井を持つ石造りの蔵のような既存の空間をそのまま残し,おもしろい展示室となっていた.特に狭い穴蔵のような映写スペースがとてもよかった(参考リンク:地下カフェの写真あり).

美術 | Posted by satohshinya at November 7, 2006 13:00 | Comments (3) | TrackBack (1)