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P ジョンソン逝く

miyajima/weblog:Philip Johnson 逝く/ガラスの棺によると、25日亡くなったそうです。二ヶ月ほど前に、simon:ビッグネスが生んだ建築のエントリーの中で、未だにMoMAとのつながりがあるという話題を共有したばかりだったので、個人的にはタイムリーな話題です。しかし、グラスハウスを自らの墓に見立ててしまうとは…。NYtimesでも特集を組んで、彼の功績をたたえています。フィリップ・ジョンソン著作集(フィリップ・ジョンソン/ディヴィッド・ホイットニー 横山正 訳 ADA発行)をこの機会に読み直そうかな。nationaltrustによって、一昨年前に買い取られたfarnsworthhouseとグラスハウスを取り囲む歴史的な考証もこの際深めたい。
LINK:Architectural Record:Philip Johnson Dies
*写真は、コルビジェの墓。特に関係ないけど思い出したから。コルビジェは、大好きな海水浴中に カプ マルタン の海で。だもんなぁ。
ついでに、カブ マルタンで歩く私。

いかに建築は社会的に構想されるのか

ほんわかしたら、顔をぽちっと押してあげて
就職活動している人への、メッセージですね。
LINK:145号
就職用の写真を撮るならお勧め。目の前でフォトショップ実演してくれて、みるみるスマートな顔立ちになります(笑)
LINK:アソーカメラ
コメントに出てきた本
LINK:住宅論 SD選書 49 篠原 一男
イメージをつくる美意識のひとつ

面出薫と伊東豊雄の対談 (光の建築をめざしてー「風の塔」から「せんだいメディアテーク」まで TOTO出版) の中で、ブルーモーメンントという言葉が出てくる。簡単に言うと、昼と夜の間にある短い瞬間。面出さんの説明を拝借すると、「日没の直後、地平線に沈んだ太陽の光が天空に拡散して青い波長の光に包まれる瞬間。その青の瞬間というのは、胸騒ぎの時間、とても不安定な情緒になるのですが、気持ちが吸い込まれるような美しい時間です。」さらに、メモによるとジャンヌーベルさんは、建築家は昼と夜の二種類の図面を書けと言っております。伊東さんは、昼と夜の交差する時間に現れる建築は、その建築が美しいのかを見るひとつのものさしである。というようなことを言っています。メディアテークのコンペ時の衝撃の模型は、その背景が目に見えて表現されたものだと思います。ブルーモーメントに輝く建築を目指すというのは、ひとつの美意識として頼もしいものだと、コンペ案を思いだし、トッズを見て (パークドームも見て) 思いました。そういや、横浜の調査してたのに、風の塔見てねーや。今度行こーっと。
写真は、コンペ史上まれに見る、審査委員長の村野籐吾が設計した広島世界平和記念聖堂。
建築家 難波和彦のホームページにある青本往来記で、下記の一文を検索すると、当時の状況が少しわかる。
「広島平和祈念聖堂コンペ」の審査委員で、後に聖堂の設計を担当することになる村野籐吾の位置も興味深い。
SANAA
LINK:MoCo TOKYO
ホームページがあるなんて知らなかった。
建築同様真似できぬ。
ただのシンプルでもなく。
ただのミニマルでもない。
サナーという言葉が生まれても。
僕は疑わない。
大阪に建つ二つの教会


二つのとあるのは、同じ日に行ったから。三年前に行ったときの写真。ひょんな会話で、三ヶ月ミサに通うと光の教会で結婚式を挙げれるようになる。という話を聞く。地元の人のための教会となっているようだ。増築されたことで安藤さんらしい戦う構成がなくなってしまった感はあるが、愛着は変わらない。建築的な構成という話で光の教会の話を始めると、残念な気持ちになるが、愛着が増して、要求プログラムが増したことは、ほほえましい事実である。その事実を目の前にして、モダニズム建築の冗長性がないというのは、短絡的な感情に過ぎないが、それに答える形で存在する40代の建築家のスタンスもどこか利用者に近すぎる感じもする。もっと違うかっこのつけかたもあると思う。このつじつまの合わない妄想は、僕らの同時代性はどんなものなのだろうか。という疑念に始まること。もうひとつの写真は、村野籐吾の宝塚カトリック教会。そういえば、心斎橋そごう無くなったなぁ。
モティーフが語る可能性

伊東豊雄もの(建築)はあんま好みでない。メディアテークを始め、ぼくにはハードさがものたりない。艶めかしくやさしすぎる。案の定、ぽ氏におまえは嫌われるタイプだと言われた。ちょっと、いや結構ショックだったけど。何はともあれ、いつも期待させてくれる伊東さんの言説。今回も燦々とした気分でオープンしたトッズを見た。注目すべくは主に二点。実際のケヤキとのシンクロ感。ガラスのおさまり。目地を消そうとする、ガラスを填めてから、スムージングを掛ける行為。(ガラスのおさまり具合はこちらの方が写真豊富。サイドバーのTod's Building.をクリックすると見れます)。手作り的な思考性がもたらしている彼の目地フェチは、せんだいメディアテークまでさかのぼれる。GAdetail2の論文において五つの原則を発表しているが、そこで「目地を消したい」と言っている。明らかにコルビジェの五原則を意識していて、内容もモダニティというユートピアの進化を、一人の建築家のテーゼによって知らしめられるものになっており、気合い入ってる。そういうモダニストしての一面と、けやきが共存出来る彼の言説に惹かれる。惹かれまくり。全然建築の感想書いてませんが、内装も伊東さんが関与されているだけあって、商業建築にありがちなDiorのような外装と内装という二項対立もしくは、乖離は起きていない。ちなみに、実際見て比較するとすぐわかるが、Diorは表参道にお金かけ過ぎで、銀座がチープすぎる。建築家がどこまで関与できて、影響を及ぼしているかはわからないが、トッズはバランスがとれている。また、商品が通りまで出てきているのでどこかイタリアの街角らしさを感じる。自然に人も群がる。セリエのフィオレンティーナのオーナーでもあるが、セリエAに上がった時点で中田を獲得したタイミングと表参道に構える戦略なんて分かりやすすぎるが、なんだか愛らしい。で、建築の評価まだしてない。今後どのようにこの建築が残るのかが面白いところだと思っている。商業建築の場合その華やかさの裏に、予期せぬ事態に回収されるという、シニカルな側面を持つ。トッズが、日本でうまくいかなくなったり、プログラムの要求上、手放すなんてことも考えられる。そう言った時に、この建築がどこへ向かうのかが、楽しみ。実際のけやきは、表参道を象徴するような存在になっているが、けやきのモティーフを持つことで建築がどこまで社会に開かれていくか。楽しい建築を体現する象徴となれるか。注目すべき二点なんて書いているが、写真で十分わかりますね。

後で気づいたが、もっと振って撮ったらケヤキで覆われている感じがわかる。店内に投影されているプレゼンテーションもおもしろい。
LINK:architettura/TOYO ITO. TOD'S Omotesando Building
(ケヤキで覆われている感じがよくわかる写真がある)
再構築目まぐるしい表参道情報としては、安藤忠雄のhhstayleがまもなく出来上がりそうです。あと、キャットストリートへ入るところ(アールジーンのショップの前)にデッキみたいなの。なんだありゃ?まったくデザインしていない。聞くところによると学生が企画したとか。姿勢は評価できても、出来た「もの」としての評価も同時に立ち現れる事実を黙認している。
個人的な回想
けやきが、ショッピングと建築をつなぐポピュラリティ(大衆性)を獲得したということを、shinya:鉄板エントリーのコメントで口走ったついでに、トッズの敷地から近いところで、三年の時、僕もひとつの回答を出しているので、当時の思考をモティーフというキーワードで、けやきとシンクロさせてみようかと思う。当時のコンセプトは、こうだ「木のように見える構造があればいい」。単純に、僕の中にあった上位主義の建築がショッピングを扱うときのトラウマになっていた。従って、予期せぬ事態に回収されても残る部分を具体的なもので作ろうとした。建築が変わらないということを、シンボリックに見える構造で表現したのだ。空間構成は、目的空間がショーウィンドウと呼ぶ外からも見える部屋。(フェラーリの専売店を計画したのだが、ブランドと一般的に呼ばれているものであれば、なんでもよくて2500平米の敷地に、車のデリーブによって予期せぬように見える残余空間が作れるのではないかともくろんで、車を選択した。)それ以外のプログラム(車を搬入する動線 カフェ バックヤード 機械室など)は、一辺50m(敷地外周100m)の正六面体の中に立つ木のような構造と目的空間以外に充填されていく。多くはその足下で解決した。その足下の空間イメージは、ショッピングとは関係を切れる無目的な都市の庭とショッピング行為が共存する空間を想像していた。トッズも敷地全周100m。決定的に違うのが、L字の敷地ということ。氏も述べているが、敷地がここまでタイトでなければチューブが発生したということをPLOTで言っている。建築が建つという構造が、彼の建築にはあるので、真正面から立ち向かえば、比較することもばかばかしいけれど、今回は、建築が何をプレゼンス出来るのかということだけについて考えたい。僕の提案は、構造さえ残れば、機能が回収されても構わんと言うスタンスがコンセプト。(はじめは、ショッピングを楽しむ人、街を楽しむ人どちらも引き込める空間をつくりたいというところから始めた)空閑地になったとしても、足下に魅力的な空間が残ることによって、木のような構造の強度を説明しようとした。伊東豊雄が「20世紀を通じて、幾何学を頼りにしながら抽象的な建築を作ってきた。でも、それを今考えてみると、避けられない構造や施工の問題があって、単純化するとか、幾何学に一度置き換えて解析をしてきた。今や複雑な物を難解なまま解けてしまう。」というように技術に裏付けられたアルゴリズムが、わかりやすい形態に置き換えられ、そこの場所におけるシンボル(けやき)とリンクする。ただ、僕の場合は、木々が四季折々に風貌を変えることによって存在を示すことをイメージの始まりにしているので、目立たない(トッズは、表面がケヤキ。)もしくは意識されないが、残ってしまうようなシンボル性をもつ構造体にしたいというところが違った。と言いたい。


なんだか変わらないじゃないという感じがするが、一人の建築家の思考を、自らの創作を通して理解していく。一人の建築家の思考の変遷を知る事は、建築を知るためのひとつの手段と思える。
映り込むWAIST DOWN@PRADA
Herzog & de Meuron×AMO/OMA

中止になったNYのAstor Hotelにおけるコラボレーションと今回はテンション(意味)が違うものの、国際巡回展という名目が実現したプラダ青山におけるテンポラリー空間。このコラボレーションも、エキサイトな気分になれた。akuエントリーが、正面からの写真(模型)だったので、鏡面に映り込んだ腰下をエントリー。繁忙期にも関わらず陳列している商品を大幅に減らしてまで展示する姿勢はすばらしいです。展示と商品を分けていない点。展示を見たい人とショッピングを楽しみたい人を含めた動線。同じような類をメゾンエルメスやルイヴィトンに見ることが出来ますが、プラダが一歩リードか。また、写真にあるような大物の展示空間はあまり人がおらず堪能できます。エレベーターの中も要チェック。
ちなみに、エピセンターはNYソーホーの一号店に続いて、二号店のロサンジェルス 三号店のサンフランシスコ 以上OMA。四号店の青山 H&deMとなっている。エピセンターというコンセプトは、単なるショッピング空間を超えて、公共性と文化活動の融合をめざした場所。本来的には震源地という意味を持っており、従来とは異なる顧客との関係を築く実験の場として捉えた店鋪。ミウッチャプラダが、ハーバードでレムが建築家という立場からショッピングの研究をしていることを知り、誘ったという話は有名ですが、プラダは、経営状況やショップの飽和感という危機感から、デザイナーから大企業への転換期を、エピセンターという判然なコンセプトで、建築や空間を含めた具体的なアイデアを都市に提示した。青山は、エピ?エゴ?という感がありましたが、この展示を見る限り、今のところ成功していると言えるのではないでしょうか。リーフレットにある「エピセンターらしい多元的な現代空間」というくだりも納得。
以下「いつもかみ合わない漫才みたいな会話」より。六階における展示の話題と結論。「テクストの位置が背面にあり、味見しながら見れない」「腰下が林立しているように見えることが優先された」という腑に落ちないニラミ合いをしながら下まで階段で降りる。地下一階のダンスするスカートは、うっかり下から覗きこんでしまいます。
補足
新建築一月号を見ると、六階の展示はスカートの森をイメージしたという事です。鏡面に空間と人と東京の風景を写しこむことを意図したと書いてあるので昼間の方が、陽の光とその反射がおりなすフレア感に包まれた空間の中で楽しめそうだ。展示は1月16日まで。
楽しいアイデアは人と共有できることで本当になる

今日は、初めて(一年生の後期の課題)ティーチングアシスタントを体験しました。新しい体験をする時は、新しい発見を期待するものだけど、愚痴も聞けたし、笑い飛ばすくらいの余裕もあり、まだまだ大人げないところを露呈するくらいの交感はありました(笑)。彼らの具体的なアイデアを交えて、話をするので、初めて会った感じがしないくらい踏み込んだ話ができた。自分の考えたことが魅力的に見える。それが人と共有できる喜び。それが飛躍する瞬間。アイデアが持つ限界。それを超えるための緊張感。突き進むための執念。自分の思考が搾取(さくしゅ)される不快感。それらがめまぐるしく展開していくスピードが楽しかった。疲れるんだけどねそういうのは(笑)。結構カチンとくることもあったけど、もやもやが解消されるまで、時間の限り会話した熱意が伝わっていれば、それで十分。僕が正しい事を言っている訳ではないし。それを批判できる鋭い感性を持つことが大切。ただ、自分が間違っていることに気づくことが一番難しい。自分に素直になる開放感を発見する時の快感を味わうことができれば、きっと次の展開がどんどん現れる。時には、道筋立っていない事も許容しなければいけない。無数の解答がありえる中で、何をたよりに自分のアイデアをシンプルに整理し、多くの可能性が示唆(しさ)できるものになるか。僕の中でのシンプルというのは、多くの場合、人とアイデアを共有するためのシンボルのようなもので、迷ったときに戻れるような芯の強さを持てる思考。可能性というのは、人が飛躍させてくれる事が多く、自分の計算外であることが多い。コミュニケーションの中でもその立ち位置を確認できる。言葉で整理できなくても、自信に満ちた判然で具体的なアイデアがある空間。それは、今日のような即興性の空間でも生み出すことが出来る。そういう体験を積み重ねていく。きっと、それが自然に演じきれるような心地よさが忘れられなくなる。デザインにはそんな可能性が開かれている。今日は、僕の指摘をふまえて、文書を書いてもらいました。肩に力が入りすぎた、ある意味で完成され過ぎたもの。従順な気持ちが僕の健全な悪意によって汚されてしまった人(笑)。ただ否定的な態度をとることが正しいと勘違いしている人。などね。出来るだけ、アイデアを批判するために、よりよい具体的なアイデアによって、問題点をクリアーにしていくことを心がけました。無垢な感性がそれに引っ張られてしまうかもしれないが、きっと、プライドを持って僕の悪意を超える努力をしてくれると思っています。
以下、個人へのコメント。
4263 君も感じていると思うけれど強制力のあるシチュエーションはそぐわない場所だと思います。すでに美しい場所だから、そこに手を加えることの重みを意識しながら、妄想すべき光景は、きっと風景を切り取る瞬間に至るストーリー。または、それをじっと見ることが出来る心地よい場。そこにふたりで手をつないでいけるような健全な雰囲気。
4265 いいアイデアをもっているので、その理想に近づける一方、だれもがいいねと思えるような風景をひとつ想定してください。雑然とした住宅街に、どきっと立つような違和感かな。

くさいものにふたをするような見た目は、みればわかってしまいます。
4269 じぶんの中で細切れの良い小さなストーリーがあるので、それらが、はまるシンプルな全体があると、人に良さが伝わると思います。個人的には、橋の上と下をつなぐ「光の柱」というのがいいかと思います。
4271 自分の世界を信じて、迷いを振り切るスピードで一度やりきってください。迷いも必要だけど、それを超える勢いも同時に必要です。内側から外を見るストーりーがあるので、海にせまる山の頂にたつ、外からそれを見る事も同じくらい考えてください。
4273 機能があるのではなく、魅せる空間が先にあるという考えは、僕の感性に一番近い感じがして楽しかったです。コンテナが、積み重なったり、つながったりするわかりやすいルールがあればいいと思うので、周辺にある程度、具体的なシチュエーションがあって、そこから派生するようなイメージ。でもいいし、ものすごい巨大な中のひとつとして考えるのも楽しいと思います。後者で行くならば、プレゼンテーションにその巨大な中に埋もれている感じがわかる、猟奇的な絵があると相当楽しいと僕は、妄想しています。
4275 自分の世界観を持って突き進むパワーを、人を誘惑するような具体的なアイデアに還元することを、否定的に見るあなたが、思考を大きく分断しています。僕が言ったようなアイデア以外で当然やってほしいし、自分の中で考える時はいいかもしれませんが、それをあなたが身体で理解していない「建築のような言葉」で説明することも、自然でない気がします。四つの場面があって、それらが繋がったり、切れたりする、複雑さが、シンプルなアイデアで繋がっていることを徹底して進めてください。あなたが言うようなのんびり出来るというのは4m×6m×9mの「小ささ」を四つに切った中で、埼玉新都心のけやきひろばで確保できるとは僕は思えません。それを鮮やかに、一蹴できるものを期待しています。
4277 音が響くための技術的な裏付けが可能ならば、良いかもしれませんが、もやもやしたまま、それを口実にこういうかたちになりましたと。言うのは、自分に対して無責任だと思います。また、空間を展開するイメージが一方通行にならないように、つないだり切ったり、試行錯誤する痕跡がまったく見えなかったので、そういう事も試してみるといいと思います。
4279 言葉に頼っているところが見られるので、具体的なアイデアを詰めてから説明できるといいと思います。携帯があるのに、あんなにたくさんの電話ボックスが必要なのかと思ってしまうということは、そこまで良い空間になっていないという事です。ハチ公前に、建つシュールさと、同時に存在する中の空間のイメージをもっと詰めてください。
4281 よい場所を見つけたので、既存の階段とどう繋がっているのかを模型でわかるようにし、現在のネガティブな場所のイメージが、反転するくらいの自分が良いとする鮮やかな風景を表現すればいいと思います。
4283 僕は見てないのでわからないですが、大西さんのアドバイス通りと思います。
4285 もっと使い込んでいけるようなイメージが沸くようにした方がいいと思います。
4287 内側から外を見るイメージがあるようなので、高層ビルの上にたったとき、外からどういう風に見える存在なのかとかも考えるといいと思います。
4289 川に浮くというのはシチュエーションがいいので、そこであり得る可能性(あながた言う、陽の光がつくる川面の輝き)を増幅するような空間を作っていけばいいと思います。
4291 木漏れ日のような空間を、実際の木でつくることでは、「手を加える必要がない。」と自分で言っているようなものなので、シンプルな箱に入ると、まるで木の下にいるような空間を作ればいいと思います。強風がそよ風になり、雨がしのげ、強い光を遮断する空間が、殺風景と言う住宅地の(待ち合わせなどに使われるような)シンボルとなるような場所を目指してください。
4293 同じ面積で、全く違う空間を体験できるアイデアは非常によいと思います。それが、ただのアトラクションとしてではなく、いろいろなシチュエーションで使えるなんて話が続くとさらに可能性が広がると思います。
4295 人工的なものを否定してしまうと、「人が手を加える事を否定する」シニカルな側面があることを知ってほしかった。だから、自然と共存できるような美しい人工物を想定することを目指してください。
4297 僕が言ったような人が居られるような使いこなせる部分と、あなたの世界観を色濃く投影した、他を受け入れないような純粋な空間があの小さな空間に共存するほうが、きっと多くの人の共感を生むことになると思います。
4299 僕が見ていないのでわからないですが、メールを見ると、難しいこと。自分の知らない世界に挑戦するところが感じられるので、大西さんの言葉を参考に、複雑に入り組んだイメージが、誰でもわかるシンプルなアイデアで繋がっていることを目指していけばいいと思います。
4303 シチュエーションは、本当にありえそうだし、よいと思います。あの大きさの中で二つの対照的な場所をもうけて、本を読む場所を使う人が選択できるイメージをもって、自分が納得できるかたちにして下さい。空間をつなぐあの狭い場所がポイントだと思うのですが、今のままでは住宅と住宅の余ってしまった隙間みたいで、心地よい気がしません。あの幅。小ささでも人を楽しい気持ちにさせることは可能だと思います。
4305 かなりもやもやしているようでしたが、人工物が、すでに美しい自然とどう融合できるのかを具体的に示すことが、あなたの使命だと思います。雪の上なかにある話ばかりでしたが、同じかたちで四季を通じて存在可能なものを考えるといいと思います。
4307 すでに魅力的な清流に、存在可能なものを考えると同時に、中に入った時に、川がもつ魅力の一つである音が反響することで、普段感じられない体験が増幅されるのは、いいと思いますが、自分の溢れる創意を作り込むことで解決するのではなく、わかりやすくする必要があると思います。造形的な表現でも可能かもしれませんが、ぼくが言うような四角い箱で、その川の魅力を増幅させる意図を解決することも可能だと思います。
ビッグネスが生んだ建築

MoMAを実際見てないので、あれこれ言いたくないんですが、建築を取り囲む話題がとても豊富な建築なので、感じたことを整理するのもいいかもしれない。ビッグネスが生んだ建築と言ってしまうと当の建築家はあまりうれしい気分になれないだろうか。それと、MoMAが持つクレバーさが、谷口建築事務所がもつ建築に対するスタンスと、非常に近いと思いました。プレゼンテーションは、まずMoMAの歴史から始まります。そこで、まずMoMAのクレバーさを知る。オープン前に実写がメディアに出ないことからもわかるように、全てが戦略をもっている。35年にJJPアウト、グロピウス、コルビジェ、ミース、FLライトに、初館設計のための白羽の矢がたつ。僕が思うにこれは、世に対するポーズだったと思う。結局五人とも辞退する運びになり、五人に比べれば、名の知れていないPhilip L. GoodwinとEdward Durell Stoneが、1939年に設計する。今回も、NYでそれほど知られていない、谷口が選ばれたんだと納得させられる。あと、有名な戦略としては、インターナショナルスタイルを、Pジョンソンとヒッチコックが企てたこともその一つ。Pジョンソンはまだ生きているそうで、現在もMoMAと関わり合いがあり、今回のアディション(増築を含めた建築の再構築)にも少なからず関係されているというお話でした。谷口事務所が唯一コンペに出し、しかも獲得したという話はあまりにも有名ですが、コンペティションは一つのアイデアで決まってしまい実際建つ建築が良いかは全く別物という、建築に対する想いからの行動であって、今回も辞退するつもりで、ポストへ投函するぎりぎりまで行ったと。これまた納得させられる。(誰が。コンペの辞退を止めたのか? それは、谷口さんがハーバードでお世話になった師だそうです) うますぎる?いや、この仕事をやれば、このくらい言えるでしょう。言いきって欲しいとオーディエンスも思っている。豊富な図面や写真を用いて、charetteから、conceptdesign、designdevelopmentの流れの中で、こだわったNYに建つ美術館ということに聞き入り、それは楽しい時間だった。さいごに、宮本亜門がこけにされたなんてニュースも最近ありましたが、MoMAは、あのNYtimesが絶賛だったようです。それはなぜか?。氏の言葉を借りると、アメリカが持つプラグマティズムと、MoMAの戦略、今、アメリカに新しい建築があまりないという事がそうさせたのではないかと言うことでした。
*写真は、2004年1月時点の写真です。
追記:このエントリーを書くに至った楽屋落ち的な伏線。
今日は、毎度大盛況のtkmyforumでした。会が終わったあと、本音で言えよ!なんて言われ。感性剥き出しだった。感動した(笑)。MoMAのプレゼンテーションを聞いた感想を書く前に、どうでもいいけど面白い話題を羅列。先日の金沢行脚で、20数年ぶりに自分が設計した建築を見て、すごくよかった。と氏が言っておりました。なぜかというと、そのまま使われているとのこと。僕らがあーだこーだ言っている中を、かいくぐって聞いていると、行政が管理している建物だから、当時の川上元美の家具とかも、そのままあるし、いがらしさん(確認がとれたら訂正します。)の白いサインもきれいに残っていると。いっけん、使用が沈殿しているように聞こえるが、おそらくそうではないと思う。丁寧に使い込んでいるという方が、適切だと思う。こりゃ、タイムカプセルだなとか思っている時に、何か言いたそうな顔をしているように見える僕に、本音で言えよ!って言われちゃいましたが。休館日に行き、中に入れてないのもあって、よかったです。なんて言ってしまった。最悪のほめ言葉でしたが、実際よいと思っていたので。細かい見た目の趣味はおいておいて、経年変化好きには、他の視野が吹っ飛ぶくらいよかった。まぁこんなに褒め殺し、してもしかたないんですが、今日は、ずっとほめっぱなしの文章になりそう。いっつも読み返さず一気に書くのでもう先が見えている(笑)。他には、アクセスが多いんだったら、今後のことも考えて、OBからバナー広告代をもらって、レンタルサーバー代運営していけばいいんじゃないか。という話が出ている時、ライブドアの就職試験にblogを作ってアクセス数のカウンタがある程度越えないと、採用されないなんてどっかで聞いたのを思い出しながら、それもあるなと思った。今日の会で二人のOBがプレゼンテーションをしてくれて、どちらもおもしろい事をやろうとしていることが、わかりました。めじろは木造の架構の可能性。みかんは本棚がアフォードする愛着行為と建築エレメントの関係性。そういった意味で良い建築だと思います。完全なる個人的な感想を添えると。めじろのデザインはどこか、わかげのいたりというか。プランやセクションの図形的な収まりがあんまり好きじゃない(笑)。ぱっとしか見てないけど、直感でもっと整理できる気がした。もしくはやりすぎ。みかんのデザインは良いと言いたくない(笑)。それほどかっこよくもないんだけど、あえてモダンに見えないようにしている感じに素直さを感じられないが、筋はとおっているので、代表作がNHK?という感じ。全然認めてないように聞こえる?。帰り道、のんにぴよは、生活が破綻するまで行ってしまうのが危ないよ。なんて、横目で見られ、なにー!と思ったり。僕が一番素直じゃないと言いたいらしい(苦笑)。
楽しい建築
ローザンヌEPFL大学習センターコンペ勝ったSANAA

原広司と大江健三郎の講演会に行けた人が少なかったようですね。社会人には厳しい時間だったが学生はどうだ?。ディスクリートの概念は、新しい社会(建築)を示唆するものになるのか。新建築12月号月評にnks architectsが「(〜)金沢21世紀美術館の建築自体を簡単に真似などできないが、この建物の空間構成のあり方を別の建物に移植することは比較的容易である。適度なバリエーションを持つ個々のパーツがヒエラルキーなく集合し、パーツの隙間に都市空間のような隙間をもつ構成。これは、現代の独立した個人と社会の関係に似ている。(〜)長谷川祐子さんは双方向、参加型、共同型の共創という価値観を示しているが、これは現代のリベラルな民主主義理念にも繋がる。(〜)」というような事を書いている。共振作用がどういう回路で増幅するか。興味深い時機に突入したに違いない。と僕の感性は頷いている。難解な概念をひっさげ、制度的な立場で社会を支配しているというスタンスが建築家なんだーとか。思っていた時期、せじまさんのボキャブラリーには、感心させられることがあった。とにかくわかりやすい。建築の内部に入っていない学生には、むちゃくちゃわかる。それは、市民レベルで共感できることを指す。新建築の1月号において、伊東豊雄が、近代建築のボキャブラリーを洗練させることが目的の建築を作っているだけだと、現在の建築の立場を一蹴している。氏はそこで、楽しい建築を作りたいと言っている。ふむふむ。機能的なものが美しいのは正しいし。社会(ここでは、自治体という制度)を批判することも正しい。建築をつくる目的が間違っていたと。僕はコンペティションをめぐる憂鬱で議論した中に潜む、淀んでいて掴みきれない建築をつくる目的が、楽しい建築につながってくるような気がしている。(あのときの議論は、建築に立ち向かう戦略の中でコンペをどう利用するかという事が内的な中心だった。議論を明確にするためにコンペ的な思考に立ち向かうという、表層を持っていた。)
建築はわからないけど、すばらしいと思える建築が実際にある。この矛盾を打ち崩し、自分を切り開くために、建築が好きだ。(好きだと思いこませるくらいじゃないと建築はやめた方がいいと思っている。)という前提を抱え込み、私的なきっかけから生まれる具体的なアイデアがあって、前衛的な構造が見え隠れしていないか、既存が持つ上位下位を壊せやしないかという視座を持つスタンスが、自分に素直になる自分にうそをつかない境地の中で、どういう規模で自分が自分以外にコミットできるか。そんなことを思わせてくれる写真だ(笑)
デザインする態度

ギャラリー間が主催した大江健三郎と原広司の講演会を聞いた。ちらしを見ると大江さんの事が書いてないので入稿後に決まったんだろう。来年、大江さんは70才。その機会に前日、海外メディアの取材を受けたそうです。日本の人は誰も祝ってくれていない。なんて笑いをとっていましたが、そこで、五冊。今日的な話題の本を挙げて下さいという話があったそうで、(30カ国語にも訳されている)「集落の教え:彰国社」を推したそうです。それほど、原さんとは親睦が深く、互いに知的な示唆を与える立場だと言うことが会話の中からも滲んでいました。また、メディアに対してdiscreteってわかるか?ということを会話したらしく、同じ発音のdiscreetは、分別のある、慎重、控えめな、目立たない。というように原さんとは正反対の意味を持っているっ。てな話でまた会場に華が咲く。続けて、縦を切った、横に繋がった民主主義の話とか、政治学者の丸山眞男さんが次の展開として全ての個人が自律している必要があるという、それはアナーキーな状態を生むのではないかという議論の展開がある例えを出し、大江さんの意見としてその次の民主主義として東京に、ディスクリートな10の社会があるとそれらの共存関係はどうなるかと聞いたら。原さんがファシズムを認める概念なんだなんて事を言って、大江さんが共感出来ないとか(語弊があるといけないので補足すると、彼曰く長い時間の中の一つの断面としてファシズム的な現象もありえるということを言いたかったらしい、ディスクリートな現象は長いスパンの中で展開しないと意味が無いなんて事を言いたかったようだ)。戦後食べたケチャップは民主主義の味がしたなど楽しい話題が次々と展開する。最後に、原さんがトイレへうろうろしているとき、大江さんが一人でディスクリートの事について話をまとめる方向へ、今年は二つのドアが印象的な年だったということにしようじゃないか。ひとつはお金をたくさん持っている、なんとかドア(livedoor)が、球団を買おうとしたこと。もう一つは、コネクタビリティとセパラビリティが共存しているディスクリートの概念を持って、未来のドアを開けようとしている、あまりお金を持っていない原さん。ね。(従前なる概念のひとつの具体性として、ドアが限度のある多様な連結可能性を開くという話が前にあって)最後にどっと沸く。当然原さんは苦笑。スライドはたくさん用意してあっただろうに、建築の具体的な話はとんとなかった。空間の現象で話す言葉と論理を用意することが自分のライフワークと語る一人の建築家が、概念はオープンソース的なものだということを、なんども言っていて、その概念によって具体的なものとなった建築を語ろうとせず、思考が介在するひとつの概念にすぎないんだということを全体として言っていた気がする。建築を言葉で覆い尽くすスペシャリストなんていないし、言葉のない建築なんてものも存在しない。建築を建てるという行為が、人を動かす概念を示唆出来る美学なんてものがあるんだと強く訴えられた二時間半でした。
図書館@金沢
玉川図書館フォトコンテスト参加

読売新聞によると、たばこ工場を再生した近代史料館[別館]と、[本館]の二つで金沢市立玉川図書館になっている。ともに谷口事務所監修。異種の建築をつなぐ部分というのは、建築を見るときの醍醐味の一つだと思うのだけど、これは見た目もいけている。再生というと、ギブスっぽいビジュアルが目につくんだけど好きな感覚。構造的に連結しているかまでは、分からなかったが、動線は連結しているようだ。実は、月曜日に行ったので中に入れていない。
外装の鉄板の内側は、別館と同じ煉瓦です。

窓ふき
京都駅とシアトル中央図書館

メンテナンスの視点で建築を見ると、たまにおもしろい発見がある。ものとしてのサスティナビリティをまじめに考えると、自分がつくりたい建築を妄想しながら、こんな風景もを浮かべてしまう私。高所が苦手なので見ているだけで十分ですが(笑)
別のアングル

都市と住居をつなげてみる
牟礼

不穏な空。大地に参加する墓。崩れないように積み重なる石。奥へのびる道。浅い家型の家々。粒の細かい土色。車。それらがまとまった三色に見えるボーダーの構図の写真。感性の露出していないblogへの警鐘が届かない昨今。徹底抗戦するか。大川先生が最近、象の富田玲子さんの家に行かれたらしい。なんとM1住まい。藤森邸は、すでにないと聞いていたのでぜひ見てみたい。富田邸を見て、ここまでと言わしめるまで使いこなしている。という話を聞くと、ぽ建築は、M1が持つ構造と比べて、大げさな視座の上に立とうとしていない。建築という技術を世の中で使えるところにあてがっていこう。建築という規模を裁量する中に見いだす感性をあてがっていこう。という、ところなのだろうか。否定的に書いているが、どちらかというと教祖的なシンボル性が気になって書いている。稲垣栄三の朝日新聞に載っているコラムに、座敷の喪失は手作りの創造的な儀礼や祝賀の機会を住居から奪い、住居における祝祭と呼応した高揚が、リズムとなって都市の祝祭的な賑わいに繋がっていたと指摘している。おもしろい。建築と言うまでも住居に対する愛着行為が、住まいの中のヒエラルキーを伴う中で、座敷に物を置かないドメスティックランドスケープをつくりだしていた。そのコラムの始めに、「近頃の平均的な都市住宅は、居間 食堂 台所を中心として、六畳程度の広さをもつ個室がいくつか付属するという形にほぼ定着したかのように見える(〜)ひとまず快適な生活を送る条件が整う。その上で多くの家庭用電化製品、家具そのほかさまざまのモノが配置され、部屋の機能と利便性が一層明快に発揮される。住居におけるモノの氾濫は最近の住居で無視できない傾向であって、生活空間は建築によって与えられるよりモノの種類と配置によって決定されているといっても過言ではあるまい」と書いている。どこかで聞いたことあるフレーズだが、煮え切らないユニオンのコンペ案を見ながら、んー。機能的な欲求から生まれたものを整理することよりも、かつての住居が持つ祝祭性を壊したような、社会の大きな枠組みを変えられる提案が出来ないかと思ってしまう。今、M1のような箱の家をつくっても、モダンなように見えるモノがいいとされている風潮にのってしまうだけで、室内風景は良くならないし、案を見ていると室内風景をつくることが前倒しで、住んでみたいというのとは話が違う。元倉さんのを見ると象徴的にはめているだけ話が違う、コストも高い。愛着があれば→モノが整理されるという単純な図式でもないし。空間を作り込んでいく→愛着を持つというのも、建築の規模を規定してしまう気がする。課題で、創造的な手作りの祝祭性が取り扱える規模の建築を提案したいのかもしれない。都市と住居の空間を繋げて考えるのは楽しい。
市民のターミナル@時雨の広坂
「21世紀の出会いー共鳴、ここ・から」@金沢21世紀美術館で感じたこと。いいものを体験する意見を言う。本当に、こころとからだに内在している感性を、二重の身体(原始的な肉体としての身体と情報としての身体)を行き来しながら揺さぶられた。

円を構成するガラスは意外に単調。プランが可能ならば外部の貫通通路などを通して表情をつくってもよいかと思った。コンペ直後のイメージで、せじまさんが言っていた、自由曲線の方がよかったのかもしれない。鬼石町のプロジェクトはコンペ時とだいぶ変わったが、ガラスの曲げパターンをいくつかつくりコスト的にもクリア可能な曲面を描いている。メインアプローチおぼしきところは、アクティビティーが豊かなライブラリーやカフェが配されていて耐えられるが、裏が丸出しになっているところも少なくなかった。また、見通せる通路のプロポーションで決まったであろう天井も結構高く、その高さでファサードのガラスが構成されおり、遠くから見るとちょっとめざとい。風景が映り込んでいると言うより、内部で多用されているガラスとレイヤーをなしてしまい、くすんでしまっている。抽象的な白は、ひたひたと音を立てるように汚れ始めている。メンテナンスが大変そうだ。インテリアも気になった。今後使い込んでいく中で解決する程度かもしれないが、チケットカウンター周辺はなんだかおちつかない。地下はふつう。いくつかある中庭から眺めるとアートが展示されていないアングルも多く、アートがあってというのが成功しているとも言えるが、建築がもう少し自律できたのかとも思う。中庭もガラスがうるさい。空間に潜む狂気は察することが出来たのか?初めてタイムリーな状態で見たので、正確にはわからない。突き抜ける瞬間を、ブレのニュートン記念館を喚起させる112.5mという円の巨大さが、全てを飲み込んでしまったのだろうか。もっとよくなるんじゃないかと想像をかき立てられる建築だ。


建築が良いという印象よりも、いい美術館だということを感じられた。休館日も開いていて、有料の区画以外は自由に入れる。金沢も美術館の建つ城下町が栄えており、僕は無料のロッカーに重たい荷物を置いて、トイレや、休憩に美術館に戻っていた。ここが、行動の起点となるようなパターンを自然に演じていた。夜は10時まで開いていて21世紀と、いうだけある。今後、みんなさわっていた無料区画の展示物の破損や、あまり好ましくない方が住み着いてしまう事によって、その魅力を収縮して欲しくない。「広坂芸術街」というタイトルでコンペを行っただけあり、開かれているのはいいのだが、中心の有料エリアの外側に、無料エリアがあって、さらに外側に休日立ち入られないところがあったりと、中に入ると妙に閑散としている感覚がさみしい。休館日も一番外側にあるカフェとライブラリーを開けて欲しい。一方、日曜日の昼間。(僕にとっては)かつて遊園地に家族連れでくるような感覚で市民が集まっていた。体験的な展示が多く、列をなすこともあり、はじめはあまり集中できなかったが、夕方以降は、家族連れが引き楽しめた。休館日に入れることを知らずに急いで見たところもあったので、もう少しゆっくり楽しみたかった。静寂と喧騒。雨天と晴天。夜と昼。建築が持つポリフォニーを街の体験の中で連続的に感じられ、この経験は貴重だった。
GAのプレオープンの写真にミツPコが載ってる。

*補足1 この時期、日本海側で雨が降ったりやんだりするのは「時雨」と言うそうです。
*補足2 21世紀美術館のHPを見ると、有料ゾーンだけが月曜日休みのようです。他のサービスは10時〜22時まで。
*補足3 建物の高さ4mは、二辺支持で自立できる大きさのガラスと作品の搬入に必要な高さから決まったと建築文化で述べています。
新しい建築を目指す行為
建築の界隈を紡ぐ瞬間に出会えるかもしれない。そんな期待が金沢にある。美術手帳が、建築を特集すること。象徴している状況の一つに思える。SANAA自身、「広場」というある環境の状態をどうやって空間化するかという事を熱烈に述べている。また、新建築11月の月評に太田浩史が、建築家が実践者であることをやめ、解釈者の位置にとどまるのか。という表現が非常に今ある状況を捉えている気がしている。建築が単体で完結する社会性だけでなく、既存の環境を読み解くことで、デザインという実践(アイデア)によって、社会にひとつの回答をしめす。「都市と関わっていく」時期が来たと。実際、横浜のリサーチを通して僕も実感している。横浜の場合、巨大な空地を持てあましている。今まで、建築家が都市計画を放棄、民間が責任を負い切れず、行政に投げていた。今日、都市スケールの実践を行政が抱えきれず、現代的状況という事実が破綻を立証している。

今回飯田ユニットで、直接空地に介入し街を創造するプロジェクトから、見過ごされている場所を持ち上げることによって都市を循環させるプログラム、横浜的なソーシャルハウジングの持つ構造を都市に還元するプロジェクト、巨大なスケールを置換して、街の転用をはかるプロジェクトなど、さまざまな都市的な介入がリアリティの温度を持って、実践への足掛けを作ろうとしている。新しい建築を目指す、個人的な発想は、見る物も、実践する側も、使用者も楽しくさせるんだ。
サスティナブルが持つ視座
野沢正光さんのトークは相変わらず引き込まれるなぁ。また、来年から戻ってこられるということなので、それだけでなんだか楽しい気分になる。そういう影響力のある人間になりたいものだ。さてさて今回のトークを楽しみにしていた理由として、個人的にこれからの建築を仕掛けていくには、サスティナブルな視点は必要不可欠な要素だと思っているからだ。話題の中で、やや危なかしく出てきていた、客観的な性格を持つ工学的な視点。それを振りかざして、デザインが持つ主観的な発想を阻害してしまいかねないサスティナブルという言葉のイメージ。そんな緊張感の一方、魅力的な個人的な発想なしに工学的なメリットは魅力的に見えてこないということは絶対に言えると信じている。野沢さんが挙げていた、ボンに建つポストタワーにおけるデザイナーの地位が喪失した感覚。少し勘違いを生むのではないかと、はらはらしながら聞いていた。モダンが近代化を貫くことによって、それに対応するような思想や運動が起こった。サスティナブルな建築が目指すところ、インターナショナルに背負える共通のキーワードなんだが、コルビジェのパリボアザン計画が、正しいとも思えるような現在まかり通っている総合設計制度にうんざりする残響感は、否めない。また、モダンに対する反動を手がかりにすることも僕は違うと思う。サスティナブルなデザインは、席巻できるキーワードでありながら、地域的な影響を受けながら、解決する規模や、回答を見いだしていくという、根底に流れている理解があることに可能性を感じている。話を聞いていて思い出した小嶋さんのハノイは、サスティナブルな視点を建築にフィードバックしているというより、どこかモダン的な一刀両断したい感覚の香りがする。スライドにも出てきたヘルツォーク的な研究・開発・設計が一体となって仕事を展開する。その建築が持つヒエラルキーが、建築の界隈を広げようとする推進力になっていると思うのです。
コンペティションをめぐる憂鬱

完敗の結果で八代の夜にうち放された四人は、がべ氏を連行して七時間近く監禁。前回のツアーに比べると違った意味でテンションの高い、内容の拡散した話題がのどを通る焼酎を熱くした。乾さんがどうぶつのようにかわいくステージ上で跳ねている自由さに心奪われつつ、近代建築が取りこぼしてきた、何かをキープしているという言葉でわかるように、伊東氏の戦略的な一撃は、鮮やかすぎて僕には到底理解できない。彼曰く、スタイルではなく、デザインする作法に、近代を越える何かがあるのではと言いたいらしい。建築的な思考の支配がないものを指し、それがあるものと比較して、大切にする必要があると言ってしまった。デザインコンペじゃないでしょ今回は。とまで。まぁ、壇上にも上っていない僕には、なんの権利もない歯がゆさしか残らないが、もさもさしたビジュアルの一石も投じない彼らには、僕は何かを裏切られた気がしてならなかった。反骨のバネよりも、支配的な観念から見下ろしたいと、未だに思っている人には、とてつもなくつらい空間だったのは確かだった。(笑) 一転、翌日は、気分を変えて、組み体操をしたり、アイドルのおっかけをしたり、はらまわりのエネルギー消費のためにランニングしたり、それなりに満喫。集合住宅は視線くらい抜けている方がよさそうだ。しもんの作品と対峙してある工事中のユートピアが語りかけてきた。
扇動者のつもり
熊本県いぐさ・い製品の流通状況によると、いぐさ生産農家が出荷する75%は自ら畳表の加工をしているようだ。原草販売は、残りの25%。さ○もとくんが気にしていた、県外移出は、25%中のたった13%。付加価値販売が主流なのは、想像がつく。あさみは、子供の名前をいぐさにするらしい。て○か夫妻のぶな、みたいな感じか。建築家は、こうじゃなきゃねみたいな話をがちゃがちゃ昨日していて、結構気分がよかった。ネタの中心は、コンペの下のパースがわかりにくという指摘を受けて、無理矢理納得してもらうプレーに走ったのだけど、見る目があるなと感心。続けて建築はなんで、はこものって言われるんだとう話にうつり、どっかでスティックしたものを思いだした。[建築ってどうして四角いのばっかりなんでしょうね,という質問があり。隙間なく空間を充填することが可能な立体のうち,いちばん簡単なのが直方体だから,とまず答え,なぜそれが「簡単」なのかと言えば,人間というか脊椎動物のシンメトリーな身体にとって,前後左右上下ってのは根源的な六方向であって,それぞれに面が対応する直方体はとても自然に認知できる形だからじゃないか。]あと、テンセグリックとテンセグリティの違い(ちなみにどっちかが自立的で他方が他律的。自碇という言葉があることを知る)。ワークショップって怪しいとか。建築家は政治を背負う位の方が楽しいとか。無茶な話で盛り上がる。何が正しいと整理するより、ぶつけて分解して、反応を楽しむ行為が、楽しい。
コミュニケーション力 斎藤孝著より
すべてのトラブルは、具体的なアイデアによってのみ乗り越えることができる。
アイデアを批判するには、よりよいアイデアというのが本筋。
街の幕引き

昨日まで営業していたお店が突然店を閉めている事実を目のまえにして 街が消えるストーリーを考えることは長い時間の中でリアリティのある事だと感じた。 アーケードはお店が並んでいることを前提に備えつけられたもので雨をよけて買い物をできるというメリットしかない。護岸のような土木的思考の構築物だ それ自体に関与する余地はない。商店自体は街に点在していて、目について空きを抱えたアーケード街にとって、維持することを考えると足かせにすら見える。群れになっていることで、にぎわうという幻想は、もはやはがされている。沈殿してしまっている街の気質を、サーキュレーションする発想が求められている。建築が本来的に備えているストラテジーと、アートが持つ事件性の間で切り口を探す。写真はおおまえがさ○もとくんに頼まれた写真をとりに走り回っていた場所。
DERIVEに魅せられる
テトラポットの展開図。釜山ビエンナーレの中村政人さんの展示を手伝った時、スタディとして提出したドローイングに手を加えた物。
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コンピュータのシュミレーションのように詳細かつ正確に検討される軌跡。僕も好きな恣意性の排除された空間。物事を記述する手法のひとつとしてあるDERIVE(軌跡)の始まりは、モダニズム全盛時に、シチュアシオニスト・インターナショナルに代表されるような女学生が動いた軌跡やドゥボールの裸の都市のような、歩行者の感情の起伏やストリートの特徴のディテールの集積など、合理主義の取りこぼしの復権、ケヴィンリンチの都市のイメージにも通じる主観的な都市像を客観化した手法だ。その魅力的なドローイングたちが、今にいたるまで派生物を生んでいる。中村さんとも、今回の釜山での展示とは文脈が違うが、これはこれで美しいよねという会話をしていて。僕的な小さなきづき(回想)でした。
上野毛の家
デザインワークショップ。一週間かんづめで住宅の設計をやりました。

適切な空間という不的確さを貫く強い形式を欲した。
アクティビティのイメージが主張することへの不満。など批判的なことがもりもり。
ただ、共有できるよい風景(イメージ)を発見出来なかったので、そこまでやりきれていない。
あるアイデアに向かって、詰め切ると次の展開が、続き間のようにでてくる感覚にスタディの徹底という事を学んだ。
梅林の家のじつはのところ
そもそも建築家がなにをもって建築家なのかは決まっていない。
ちょっといじわるに一般化してしまえば、
都市への事も、都市でのこと、現代的なテーマ、どれもを素通りして、
ただ、室と室がどうくっついているかといういう話に始まりそれに終わっている。
確かに、新しい。確かに生活が想像できる。
悪質な言い方をすれば、せじまさんはセンスの極みの頂点。とぎすますタイプの建築家。ただ、女性だからだろうか(笑)とぎすましすぎない。様なふりをしているのか、本能なのか。
まぁ、そこは、自明的なところで、議論にはならない。
話のついでに、建築家が建築家としてやる仕事ではないと50年代後半の時点で、言っている磯崎なんかは、やはりきれきれだ。(「現在の小住宅の設計というのは、せいぜいそれくらいの利用価値としての前衛的な歴史的対象としての前衛的な歴史的使命はすでにおわってしまった。設計の対象として問題にすべきものは、もうほとんど残っていない」)僕もどちらかと言えば、この意見に賛同していて、住宅だけをやっていって、自分の理想や追求は物足りない?!目立ちたがり屋で恥ずかしがり屋だから?困った(笑)
せじまさんが、新建築のインタビュー最後のほうで、スタッドシアターのプランを発見した時にそれを、断面的に使いたいと思ったといっていて。勢い任せに言わされたのかなぁとおもったりしながらも、どこが断面的にいっているのかがちょっとわからない(現時点では)。どっちかというと断片的?
そういえばどっから小住宅っていうの?扱えあるパラメータが極端に少ない建築のことをいうのかなぁ。今日、高宮さんにやりたいことありすぎて、一個でいいんだよ。小さいんだからと言われました。
ちいさな家で考える構造
建築をやっていくからには、常に批評性を意識したい。
無理にでも背負いこむというのが、正確な表現かもしれない。
約26坪の都市住宅の設計課題に取り組もうとしている。
さて、どう接しよう。
今回は、建築家が家具だったり家電だったり本だったり、空間に表出してくる立体に、
なにもポーズをとっていないではないかと指摘している西沢大良にちょっと興味がある。
歴史的には、メディアの影響によって、
最小限の戦後、立ち向かう70年代に匹敵する、コンテンポラリーなキーワードというきらいがあること。
自分の問題として、すまいに対して広ければ広いほどいいのではないかという考えに立ち向かえる切り口が欲しい。言い換えると小さいというサイズに負けない小さな家という意味は ということか。
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つくること それを貫く強い形式やルールが欲しい。
乱暴な言い方をすると、20世紀は、社会がもつイデオロギーを批判することで、つくられることが持つ構造を満足できたようなところ、それが羨ましくすら思っている。
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余談だが、建築を作る時の構造の例として、前期課題において、セキスイハイムM1のような社会的なバックグラウンドをもったカタチを利用することで、安心して要求されているナカミを満足させることに集中出来た。当時のM1は、そのカタチの根拠を主張する必要性が正しく思える歴史的背景にあり、工業的なカタチをしている。しかし、純粋な抽象的な形式として利用することで、ナカミを反映させた結果のカタチ、もしくは、カタチを主張した結果のバーチャルなナカミを超えた図式の中で、恣意性を排除出来る。あのM1で構成しましたと言わないことが追求されたことになる。
さて、今回どういった構造を利用することにするか。
構造を切り離すということも可能なのかもしれないが、それは想像できない。
デシャンのような剽窃の美みたいな構造が今は、好きだ。
ルイヴィトン
毎日新聞の写真を拝借。
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昨日のスマステに村上隆が出ていて、ふつうのおっさんだった。
ルイヴィトンの特集のようで、青木淳もさらっと。スマステ風のプレゼンで出てきた。
NYや並木通りのルイヴィトンを見ると、かつてのような異様さが無くなってきた気がする。
消費の中でデザインすることは、そういうことなのか。
GAを見る限り、設計の話自体は、芸の域だな。
隆が、二年前のパリでやっていたカルティエ財団の展示を思い出した。
このまま新手のジャパニズムというレッテルを引っ張る?のかな。
僕が知ったときは、すでにビックになっていたので、それという愛着はわかない。
気に入っている梅林の家
梅林の家について考えたこと。
・ヒエラルキーが住まい手によって移動可能な、選択できる自由さを獲得している。
・小さなということに対して、適切な大きさを鉄板の薄さでつなぐということで、回答している。
ただ、掃除しにくそうな、というイメージからくる枠のようなしつこさ。特にベットが置いてある部屋に対するベットというボリュームが不健康な不適切さを連想する。また、住環境として快適なのか。あつそうさむそう、という点はやはり気になる。冷暖房が全ての部屋についているわけでもないし。
今回の住宅で、一番気に入っているのは、建築を図面で表現する場合の、前衛的な歴史的使命を果たした点。本能的に脱帽ということですね。
身体のある空間とヴァーチャルな空間のあいだ
この前、二年生後期の課題をネタにして
3人の建築家にインタービューを行った。
はっきり言って、
建築的にどうおもしろいか。という話は無理難題である。
目的は課題集を見る学生たちが、
今後よい空間を共有していく、きっかけを持って欲しいことにつきる。
現在、つくっている課題集にも書くつもりだけど、
建築を。まぁ何かを作ろうとしたり、訴えたい時、
扱って行くとおもしろそうなパラメータを、
幾つか同時に展開していく勘を効かせなければいけない。
それは始め非常に断片的で、意識的に操作しないといけない。
僕は僕としての興味ある建築がもつ構造のテンションがある。
結果には、自分の操作を越えて、
感情的なことや時代性、暴力性、執着性などが無意識に付いてくる。
後に、その結果が意識化される事もある。
その無意識な反応のみによって、構築していると見失い、
批評される時、他の文脈に回収され、自分の思考が蓄積されていかない。
今回のインタビューでは、学生が課題を操作するきっかけとして、
自分の経験が、よくもわるくも空間に反映されているという話題が共通して出ていた。
代官山に作る集合住宅の部屋の作りが、公団を彷彿させるものだったり、
明らかに美術館に行ったことがないような、作品と人の距離だったり。
鈍い身体感覚が無意識に出てしまっているテンション(=意識的な操作)のない中で、
作品群を大きく二つに大別した。
「自分の周辺」で想像しやすい距離から始めたものと、
「全体の構成」で精魂尽き果たしたもの。
ちなみに、当時僕は後者のタイプだった。(笑)
結果的に出来たモノが、ある一定方向にしか見えない。というのは、非常に貧しいのだが、
この二方向を同時に意識することで、かなり視野が広がる。
前者は、まさに身体の経験からの空間で、
後者は、経験を越えたヴァーチャルからの空間の一つと言える。
身体のある空間は、何となく正しいことを言っている気がする。
では、ヴァーチャルな空間は嘘なのか?
インタビューの中にも出てくるが、
例えば自分より明らかに裕福な人の家を設計するとなると、
そこにある生活を想像しなくてはならない。
すなわち、パラメータを操作するには、ある一定の両端を意識する必要があるようだ。
かたい空間
以前から南禅寺の敷地の一部を横断する琵琶湖疎水のアーチが気になっていてやっと見に行けた。
期待してよかった試しは滅多にあるものではないが、これはよかった。
セキスイハイムM1に、通じるものを感じる。
無目的な空間
日田市のコンペを議題にしたゼミの中で、
今村案の小ホールが、無目的な箱として、評価出来るという点で、
まとまりのある説明が出来なかったので、
自分のためにも補足すると、
実際のところどこまで考えて、
”スポーツが出来る小ホール”という、しつらえを用意したかはわかりません。
しかし、従来の劇場という形式を崩す。という姿勢と、
一様な公民館的無目的空間ではなく、
小ホールと言ってしまい、スポーツも出来るという言い方は、よい無目的な空間を目指す表現の一つ(ほんのわずかなきっかけ)だと思いました。
ナスカ案のように、誰にでも魅力的と、たやすく想像ができる、屋上という無目的な空間を作ることもあり。
まぁ、あくまで、僕個人が無目的な空間をどうやったら、魅力的な環境にレイアウト出来るか。と言うことを考えているので、書いてみました。
今のところの、言葉の上での整理では、
無目的な空間の目指すところ、
作る側ではなく、使う人がいかに空間を実践できるか。という、ところに視点があり、
現在のリノベーションブームをきっかけに、
メディアが興味を持ち始めたことを利用して、
外から空間に参画することを売りにした、建築家のたち方を、もっと際だたすことはできないかととも考えられないかなど。
新しく見えることは、建築家の責務だという前提では、
その建築が、否定的に見られるかもしれない。
ただ、やれる余地があると僕は思っている。
劇場建築の割合の目安として、
機能を目的として目的的空間55パーセント
機械室10パーセント
残りの35パーセント。
その余白を、どんだけ魅力だと言っても、獲れそうなコンペの質ではないですがね・・・
場所という素材性
場所の素材性としての差を二者の間で考えてみる。
国際フォーラムを建てること。と、丸ビルを建てること。
僕は、前者の建築がよいなと最近よく思う。
フォーラムはニカフのドキュメンタリーの時、べったり浸っていたので、僕なりの愛着があるが、それを差し引いても、断然いい。
同じ開発手法が、丸の内を占拠している。
(丸の内に蔓延している総合設計的な周りを空けて、縦に積むという考えは、シンボルな形態で主張したいコルビジェから来ているお話。輝く都市をぶちあげて、アテネ憲章に刷り込む執着心が、インターナショナルに展開していることが実感出来てしまう街でもある。)
敷地の形状と設計者が違う事のみが、価値となっている街であると同時に、丸の内で国際フォーラム的なアクションを展開するには、都合の良いフラットな状況であった事は、想像するだけで快感である。
実際、昼休み時などたくさんの人がお弁当を広げたりするのを見るといいなと思う。
ドーナツをめぐって妄想したこと。
二者の場所の素材性としての差は、
コンテクストを作ろうとしている白金台。
コンテクストの崩壊をうたう大手町。
白金台は、偶然、区の歩道拡張地域にぶつかり、現在前面道路が空白でとまっている。
オープン時に同時に出来上がるタイミング。
かつ、カフェが同じ通り沿いに全く無い。
通りの通称名もこれからつくであろう。(前面道路にぶつかるプラチナ通りとか言うのが有名)
ドーナツプラントが象徴になり得る位置にある。
大手町は、テナントが、出店する時、契約上現状復帰という項目がもりこまれ、
これが、くせもの。
へんてこなガラスサッシがついていて、取っ払って、営業する勇気が皆ないのか、
そろいも揃って、同じ規格のサッシによって、廊下の両側の面が構成されている。
はじめ見たとき笑ってしまった。
三年で取り壊すことが決まっていることもあり、
取っ払うことによって、差異が生まれることを想像することはたやすい。
「極を抱えれば」と思っている
やはり 今回建築行為(=うれしい環境行為)を行なうことによって
なぜ ユニテを見て建築がいいと思ったのか と言ったところのつまりを
すこしづつ クリアーにしていきたいと思っている。
バカにされながら貫いた精神
不評だった異質感
よかれとコピーされる形態
今でも使われている存在感
この両極端の評価というものが収まりきる建築って?
>「家のところにしか 木が立っていない。」これは完全に誤解していました。そうだとすると、ここではインテリアの表現が重要であったはず。これを「うれしい環境」の1つのスタディと考えた場合、建物の中に取り込まれている樹木が歪んで見えることにどのような意味を持たせているのかが気になる。むしろ、素直に周囲の風景が歪んで見える装置という方がわかりやすい。平面が複雑(ランダム)な割には、断面が単純。そのヒエラルキーも気になる。
まずなぜ 木をたてたのか
木がたっていないと この建築は成立しない。
構造的にもからまず さけるようにプランが構成されている。
木に求めた質は いわゆるたたずまい。
作為的に新しく植えられようとも
もともと生えていようと
どちらに見えても良い。
その木の配置によって 場が構成されていく感覚を 直で表現したかった。
たてもの の中に 見える木と人と家具と影と光の映像が 空間を包むもの全てに写り込みそれが 変容し続けるテクスチャーになる。
周辺は 都市の中でも 山の中でも よかった
でも 僕らのイメージが昇華できる場所は 湖面の上です。
変容し 続けている形態の映像が水に反射し 見る人の印象を揺らがし続けている。
白井晟一の 直方体に円柱を差し込んでるヤツなんだったけなぁ
あれも 水の上にあって。
プランとセクションのヒエラルキーの話は
まず 空間に順位をつけたくなかったので
正方形に円を陥入させるという 縦横という概念が無いもので平面を構成し
家というものは 入り口の位置によって 順位付けがされてしまうと仮定をして
スラブを浮かせ らせん階段にした。 そのらせん階段も もちろん木に絡まっている。
そしてプロポーションで立面の 顔を決め
その結果 セクションが単純になっている。
ようするに この家はプランを決めた時点で設計が終了している。
セクションは無限に高くても 無くてもよかった。
>スケールの話は今の時点ではまだ重要ではないかもしれない。そういう問題があるということを頭に留めておく必要はある。
らじゃ。
ガラスの使われ方で 好きなものが なかなか無くて
自分が 自分でやりたい。
>「空に浮くプログラム」前段と同様。これでは当たり前(葛西のレストハウスか?)。
葛西は間違いなく頭に浮かべながら書いていた(笑)
ひろげたい視野
>もう1つ、妹島さんの横浜にある高齢者施設のファサードの考え方。
あれはちゃんと使われているのかなぁ?
>光源氏に関しては、確かにプランが類似しているが
ラカトンバッセルは林の中に建っているけど
光源氏の家(=空白の家と呼んでいる)は 家のところにしか 木が立っていない。
空間を目的としたのでなく
空間を包むものすべてを目的としたところ
包むものを 厚みの不均質な透明なもので構成した結果
表情が一定しない空間と外観が得られた。
>ガラスとガラスの間に、それらを支持するものが必要となる。 それはそうなんだ。
スケールを大きくしたり小さくしたりすることを
意図的にエスキスすることで
視野の範囲を狭めないように努力している。
>ミースのやったことは、
余談です。(笑)
>とにかく、次の要素は?
1 コンクリート スティール ガラス
リサイクルできない最も耐用年数の短いコンクリート。
リサイクルできるスティール。
耐用年数が最も長い リサイクルできるガラス。
ニュータウンはいずれ無くなる。
耐用年数が長く リサイクル可能なものだけで構成したい。
アンボンドの構法を提案するのも良いかも知れない。
2 風景スケールとヒューマンスケール
ガラスに透明性だけを求めるという手法ではなく
ガラスも当然汚れる。
原点復帰しても 汚れたままでも
うれしい環境を成立しているものを目ざす。
→風景のスケールならば汚れは消える。
→ヒューマンのスケールなら汚れの方が目に付く。
本当は汚れている石や木に もたれ掛かるような感覚の ガラスの質感を追及する。
3 シングルとダブル
ガラスという素材は熱負荷が高く
特に日本のような気候の変化に影響を受けやすい。
その結果
内を構成する時
ガラスそのものという 表現は皆無に近い。
ガラスと木を組み合わせる
ルーバーを付ける
ガラスを二重にして間に空気を入れるなどのように
ガラス単体での表現ではなく
サンドイッチされたり
対になったりする。
→二重のガラスはうるさい。青みががり質感が変容する。
→いわゆる室を構成する部分をどうするか?
→ガラスに陥入するプログラムは熱負荷が最も軽視できるもので構成する。
→(ただ 安中の場合 軽井沢のように 冬季 極寒にはならず
東京のように 夏季 灼熱にはならない。→穏やかな気候をうまく利用したい。)
嘸
外を構成する部分
→一枚で構成する。ヒューマンスケールを無視できる。たちさえすればいい。
一枚に見えるガラスの立面を
風景スケールの質感と ヒューマンスケールの質感の ゾーニングをする
4 ガラスに設けられる空に浮くプログラム
ランドマーク
敷地内にまったく均質に並ぶ機能を規定する空間アドレス性
展望/眺望
気候に左右される展望カフェ/レストラン
階段
すべり台
エレベーター
5 ガラス自体に設けられるプログラム
強い陽射しをカットし 涼をもたらす
イベント時の映像の投影
夜間の照明効果
木が突き抜けている家
>参照可能と思えるもの。妹島さんのヤコブセンの展示で製作したアクリルのオブジェ。同じく、妹島さんの「ひたち野リフレ」のガラスルーバーのファサード。原広司さんの「梅田スカイビル」のガラスファサードによる、空中庭園のアイディア。
せじまさんのはヤコブセンの記念展覧会のやつですよね。はらひろしは 調べる価値がありそうですねぇ。
>「厚みの違う一枚に見えるガラス」の指すもの。
ガラスの厚みを不規則にすることによってガラスを通した景色がゆがむことの面白さに光源氏のコンペの時からはまっていて↓

↑このプランを曽我部さんに見せたらこの↓下の写真のやつに似てるっていわれた訳です(lacaton&vassal/fr)


展開エレベーション↓

>「厚みが違う」部分を持つ「一枚」の「ガラス」?
>「厚みが違う」部分を持つが、「一枚」の平滑な面に「見えるガラス」?
>「厚みが違う」複数枚の「ガラス」であるが、「一枚に見えるガラス」?
木割りとでも言うのでしょうか。一枚のガラスで構成することは不可能な大きさなのでガラスが分節されていく。その分節しているガラスそれぞれが 厚みの違うものによって構成されていて 全体の一枚のガラスとして 表情を豊かにする。その一枚のガラスが 部分で抜けているところもあれば。ボリュームが陥入していたりという話。
imageの提出
駅をはじめ 住宅 商業施設 公園
そして 今回の計画全てにおいて
どういった場をつくろうかという話には そもそも関わることができない
これらが相互に関連せず無秩序に配置されている風景が
傲慢に出来上がらんばかりの舞台の上で
踊らされるわけには いかない。
この舞台を「いわゆる建築」のコンペティションではないと読み替える。
新しい もの こと を創造しようという機会であり
(都市計画による 建築家による 土木による ランドスケープやら 建築やらの)フレームを越えた
横断的な解釈と提案が 鮮やなインスピレーションを与える。
その解釈と提案を 「うれしい環境」と呼ぼう。
ここにガラスをたてる。
風景を 描こうとしているだけ ではない。
光景を 望もうとしているだけ ではない。
建築を 構築しようとしている のではない。
介入することにより 人々に 大地に 建築に「うれしい環境」を望み
記憶の中をデザインしようとしている。
美しい山並みを望むことが出来る敷地において
人々が見えること
山並みが見えること
ガラスが見えること
人々と山並みとガラスが重なって見えること
人々が強調されること
山並みが強調されること
ガラスが強調されること
光の中に人々が引き込まれること
光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
光の中にガラスが溶融すること
晴れだろうと 雨だろうと 曇りだろうと 雪の日だろうと その日その日の「やさしい環境」を 描く。
その全てを「やさしい環境」と呼び ガラスをたてることによって獲得する。
すべてが曖昧なバランスの中で
ここ(安中)という そのもの(アイデンティティ)として 人々に美しい印象を与える。






