建築学生が実践するインターネット時代の知的生産のツール

tkmy.netは、MTに高いライセンス料を払って、しばらくブログツールと付き合う覚悟を決めました。そうなってくると、ブログが今後どんな展開が見せてくれるのかという事が、気になります。2004年はブログ元年と言われる程、浸透し、それと引き合いにされる、匿名下の言論の自由を護る最後の砦?BBS形式の2ちゃんねるが、ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究におけるメインキーワードとして、今後一年を通して議論されていく。その周辺を嗅ぐと、2chとブログが持つメインフレームの違いに、なんとなく気づく。先に結論から言うと、「自分たちがアイデアを実践する中で、自分のために思考の変遷をノートしていくのにブログを使っている。」と、いったところに落ち着くと思っています。それであれば、建築が主語にある立場の人間にとって、ブログは有効に使い倒される方向へ向かうと思います。コム人対談 未来をよりよいものにするためのガイドライン:東浩紀と矢野直明の対談における「インターネットが登場してきたことで、個人がばらばらになっていた状態が改善された。」「いまは、情報がネット上にないと、存在しないと同じ。」という発言に賭けたいという気持ちもあります。
僕は、2chは一度も書き込まずに、すぐに飽きてしまいました。日本産のネットコミュニティとして近年にわたり注目され、純愛をテーマとした電車男で一般化し、ひとつの区切りがついた。と言っても過言ではない気がする。建築家が自身のライフワークをまとめる作品集を出すようなものか。(丹下健三は、自分を振り返ると、成長をとめるようなものだ。と言い、ずっと作品集を出してこなかったが、02年に藤森さんが牽引する形でまとめた本は良書です)。一方、米産ブログは、ニュースサイトの記事やほかのブログにリンクしながら自分の意見を書きこむツールとして発達してきた。そういうバックグラウンドを持たない日本のブログは日々自分のしたことや考えたことを書き連ねたものが多いが、リベラルな発言がネット上で展開され、*サイバーカスケードという概念を生むほど、アメリカでは巨大な発言力を持つものとなっている。(ブログで議論を鍛えることになっている効力が日本にはない。というのが決定的な違いだと思っている)。
なぜ2chとブログが比較されるかというと、2ch的な「大きさ」がブログに移行するのではないか。というのが、知識人の大勢に占める憶測で、ブログには各々の管理者がおり、人格じみたものが自然と露出してくる。そうなると、匿名の自由を謳ったノリで、ブログに突っ込むと、訴訟されるという現実にぶつかる。木村剛氏の言葉を借りると《どのように「自由な言論の場を護る」のかということを真剣に考えておかないと、2chが、廃刊に追い込まれた「噂の真相」の次に狙われる格好の標的になるということは覚悟しておいた方がよいようにも思われます。というのは、メディアとしての「2ちゃんねる」の構造自体は、新聞や雑誌と何ら変わるところがないからです。》 そこで、排他的なイメージだけが先行している社会におけるインターネットという立場を、東浩紀氏が模索する情報倫理の輪郭をはっきりさせたいという個人のアイデアを持って、ブログという形式が持つ小さな構造を利用し、集積させ、ネットが持つ構造を正しい方向へ導こうというのが、大枠の流れだと思っています。梅田望夫氏の《ブログとは実に融通無碍なものゆえ、人それぞれが自分にとっての意義を自由に見出すことで、総体としてさらに発展していくものなのだと思う。》という発言も、その流れの中で認識すればリンクしてくる。
で。だ。エントリーのタイトルに関することを記述しないと。要は、これからやっていきたいという意思表示みたいなもので、建築界では、あまり重宝されないインターネット世界に可能性があるんだということが言いたかった。90年代に一時期あった、磯崎氏が発言していたコンピュータに対する期待とは違うとうことは言える。僕の認識では、建築がドラスティックに新しい次元を獲得すると言ったことを標榜するものとしてコンピュータが挙げられていたと思う。(f.o.a.横浜国際客船ターミナルのコンペに勝ったのも審査委員長をしていた氏の文脈があったからだろう)。氏は結局、目に見えない形で建築にワイヤードされただけだと、議論を閉じてしまっている。
SPT.gif
複雑な解析を可能にしたツールとしてのコンピュータが、トッズや、写真のようなサーペンタインパビリオンを見れば分かるように、コンピュータが建築家の思考を開くものとして、伊東氏が実践していることは、一つの建築家が示す可能性だと思う。しかし、(怒られそうだけど)それはなんだか仕組みが分からないから他者にやってもらっている。という感がある。まぁそういう世代なのだ。僕らの世代が躍起になり、身体を重ねながら思考を開くものとして、ブログがある。と言うと非常に大袈裟ですが、ブログがある程度の「大きさ」へ向かう中、実践するのは悪くないというのが僕の所感。本当を伝えるはずのメディアの奔走と建築家の対立の構図を切り崩す可能性や、建築の外と繋がり、結果的に建築の輪郭が広がること。コラボレーションを意識している建築家世代の次に、それが一般化した時、何が起こるのか。下の世代がつっつくには、格好の実践できるツールがブログなのだ(かもね)。

*サイバーカスケードに関すること→ised@glocom研究会冒頭の鈴木謙介氏による講演でもイラク人質事件について触れられ、「ネット上の集合行動的現象」が注目されていると言う。鈴木氏によれば、2ちゃんねるは、イラクの人質をたたいたかと思えば北朝鮮の拉致被害者家族をたたくといったぐあいで、「政治的主張が一貫しているとはとても言いがたい」。そう述べたうえでアメリカの憲法学者の「サイバーカスケード」という概念を持ち出している。カスケードというのは滝のことだが、酵素などの働きによって生体信号が増幅される過程も指す。サイバーカスケードは「ひとりひとりの小さな疑問の声がネットを通じて増幅され、全体として大きな力になる」現象であり、「現在のネットを席巻しているのは、右か左かという政治的立場と連動した“ナショナリズム”というよりもむしろ、感情的なフックを引き金として噴き上がる“ポピュリズム”」だと説明する。思想的な背景のある行動というよりも情緒的な圧力行動だということなのだろう。

このエントリーは下記を参照して書きました。
LINK:歌田明弘の『地球村の事件簿』:「2ちゃんねるの時代は終わった」
LINK:週間!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
LINK:梅田望夫・英語で読むITトレンド:最終回・Blogを26カ月続けてみて

blog | at January 14, 2005 6:20


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» 一発目 リンク先を文字で表す。 from よくわからない日記
Excerpt: 初めてブログというものを使う。というのも、僕の友人がこの"ブログ というものを運営しており、面白そうだからである。 さて、ブログがインターネットにおけるコミュニティを作るというブログの可能性や楽しい使い方を眺めながら、livedoorで試しに書いてみてるのだが、何

Tracked: January 15, 2005 2:48 AM

» [ゴーログ]再び、モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために from 週刊!木村剛 powered by ココログ
Excerpt:  皆さん、こんにちは。木村剛です。遅れ馳せながら、「複雑系の中の混沌とした日常@

Tracked: February 16, 2005 9:15 AM




Comments

木村剛さんより、このエントリへのトラックバックあり。皆さんもトラックバックを辿って読んでみてください。
と、ここに書かなければいけないtkmy blogのシステムに思い至り、topにも5件くらいのトラックバック表記が必要と思ったりする。

Posted by satohshinya at February 27, 2005 7:16 AM

マルチブログにおける、トラックバックの集約機能を持ったプラグインが別に必要。何回か探したことあるんだけど、見あたらない。誰か知りませんか?
木村氏のトラバは、けこう驚いた。

Posted by simon at February 27, 2005 10:06 AM

ブログのバージョンを最新のものにしたら、プラグインの幅が広がっていた。トラックバックの集約も出来るようになり、全体を把握しやすくなった。今後のためにも、ディレクトリの整理も出来、意義ある再構築になったんでは。来年の四年生、だれか参加してくれると、より内容が散らばるのだけど。

Posted by simon at March 16, 2005 5:22 PM