悩み一喝処理

付和雷同的な思考で、何処へも収斂しない人。
達成感もままならないまま、目が泳いでいる人。
建築をツールとしてしか価値を見いだせない自意識過剰な人。
さまざまな顔つきをした人間が廊下をうろうろしています。
きけんです。というかうざいです。大学はスキルを身につけるための場所ではありません。
人間的な座標を定着させていく、指標を多く享受してくれる場所です。
だからいろんなことを言う人間がたくさんいます。
こんなことを書いている僕はいたって冷静です。
なぜか。広範な問題を一括し、解答する方法として、建築は非常に有効だと思っているからです。もちろん、これは僕の問題意識と達成感のバランスの中で生まれた価値観なので、全ての人に直接つながることではありません。創作活動は自問自答の中から、スタンドポイントを発見していきます。だから、悩むことは当然です。しかし、その創意が、社会に露出し、どこに着陸させるかまで考えてこそ、その妄想は達成されると言って過言ではありません。自分の価値観で言うなれば、問題の解決と新しい日常を引き出してこそ、ということです。

修士設計が終盤に入っているので、しばらく引きこもるつもりで、このエントリーは書いています。
ある後輩から留年の憂き目にあっているとメールがあり、返信したメールが自虐的ですてきなものになったので、書き留めておきます。(このメールを書くたねにしたブログのエントリー
「おそらく、最終的にはかたちにして発表するが、かたちを作ることが目的でなくてもいいじゃないか。リサーチも大事と言って、全然評価してくれないじゃないか。かといって調査レポートを超えている自信もない」
こんな回路をうろうろしていて、結果的に何もやっていない。ということになったのではないか?
ある側面からみれば、先生方は、かたちのみで結果を出してきた人たちだから、前段の部分での評価は下手にできない。でも、かたちがあって、リサーチが成り立つという道筋は確かだ。というたったひとつの論点のみが評価軸。そこを把握できないと、会話は、どんどんすれ違う。これは、僕の経験を加味して書いている。確かにかたちだけをみれば、決して満足出来るものではなかったが、獲得感はあった、だからこの先が見込めている。
難波和彦 青本往来記 2004年11月17日(水)には以下のようにも記してある。 
社会的な問題を発見すれば、そこからデザインが出てくるという幻想を持っているように思える。しかし実際は逆である。仮説的な提案がなければ社会的問題は明らかにはならない。問題がデザインを生むのではなく、デザインが問題を発見させるのだ。問題からデザインが生まれたように思えるのは、事後的な説明だからにすぎない。この落差は限りなく大きいといわねばならない。複雑な設計条件であればあるほど、単純でエレガントなデザインで応えるのが建築家の真骨頂であることをまるで分かっていないのだ。

最後に、ぼくの大好きな東浩紀を引用します。(1/22現在 リンク切れ
雑音を断ち切る
若いひとへのアドバイスですよね? それならば、学問はまずものごとを「真剣に受け止める」ことからはじまるのだ、と言いたいですね。「受け流す」ことからは始まらない。最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はおまえの意見と違うよ」と言っても、「ああそれはそいういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここに真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういう時代もあったんだな」とか「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そいういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあるとおもって読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。何にせよ、「本を読むときは真面目に読む」ということです。まぁ今の世の中だと、そういうのが非常に難しいというのも分かります。例えば、最初からAmazonのブックレビューがあって、良いとか悪いとか言っている奴がいっぱいいて、BLOGでもいろんな書評がいっぱいあって、じゃあ俺の立ち位置ってどこかなって探りながら、新刊を読むという感じになってしまっている。なかなか、「これ正しい本なんだ」と信じては本を読めなくなっている。でもそれは非常に不幸なことなのです。(ここに挙げた20冊は)そういった雑音を断ち切って読んでもらいたい(本)です。(補足:紀伊国屋の「じんぶんや」という企画の棚に平行して配布されたフリーペーパーの一節です。従い、実際はここから20冊の本の紹介が続きます。)

建築, monologue | Posted by simon at January 22, 2006 16:25 | Comments (2) | TrackBack (0)

初夢

大阪に帰ってきている。建つ位置は千里ニュータウンの中ではないが、阪急(民間)によって生まれた沿線の住宅街に、旧住宅公団のつくった団地が唐突に挿入されている。その中でも60年代のものは取り壊しが進み、四階建てから五階建てに一新される。家の窓からも見える。それに伴い、電波障害がおこるという理由で初期投資なし。というセールスでケーブルテレビの営業がやってきて、加入し、PC、TV、電話すべてがデジタル化した。目下、そんなプロセスを抜きに、配信され続けるコンテンツを、体が求めつづけている。正月とはそういう時間を作ってくれるものと考えたほうがいいかもしれない。戦後作られた新興の街にある一軒の家の中で動物的本能のまま、過ごしている。

少し反抗してみる。団地に住んだことはないが、団地はまとまって作られるため、個別の作りこみがせめぎあう住宅街と違い、公園や商店、うっそうとした緑が生むちょっとした死角を保有している。しかし、それらは団地のためというより、常時、街に開放されており、公共のものとして無意識に共有されている。秘密の電話をかけに、団地の電話ボックスを使ったり、コープの配送されてくる食料を受け取りに行ったり、地域の英会話教室があったり、なにかと生活の中の重要な場所を提供している。公団が作ってきた住戸自体には価値を見出せず建て直すようだが、冬至四時間日照に基づき、羊羹のような住棟を配列した結果生まれた場所は、なにげによいので残すようだ。公的な顔をもって保障できる公共空間というのはこういうものなのだろうか?。毛並みは違うが民によっても2chやmixiのような公共空間は生み出されている。ただ、そのような空間は、運営する個人の身の振り方次第ではいつでも搾取可能な状況にある。どのように継承されていくか今後、見ものである。建築的なスケールでの搾取不可能、継承が保障されている状況が顕在化し、祝祭性と日常性を備え実行力のある公共空間というのは、まだまだ神社お寺にしかないといっていい。いまブログをタイピングしている場所、新興地では団地のように集まって住む結果、提供されている場所が、ある人にとっては日常であり、甘い記憶であったりする。ただ、団地が生んだ公共空間が今のままでいいとは思えない。かつ、住戸と街の関係は冷え切っているし、住戸自体も魅力的なものとは言いがたい。どこを改善すれば何がよくなるという話ではないが、もっと良くしたい。ちょっと強引だが、40代の建築家達のようにベタ(日常)な視点から発想を得ることもいいし、60代の建築家のようにメタ(制度)に訴えかけることで得る発想もいい。ただ、そこを往復するような態度が必要なんじゃないか。僕は20代。これは初夢。

この手の妄想で困ったときは歴史家に聞くのが一番。歴史家のひとり言、歴史家が語る現実、歴史家の夢を感じるテキストを抽出。「場所に聞く 世界の中の記憶」 鈴木博之 著より
「建築は空間の芸術だと言われるが、むしろそれは時間の芸術ではないか。」
「われわれはあたかも建築家が自由な発想のもとに建築を構想するかのように考える。しかし人間のあらゆる営為は政治的であり、社会的であり、それゆえ歴史的なのだ。その全体に気づかないかのようにして建築を語るならば、単なる専門バカということになろうか。」
「あらゆる場所に歴史は降り積もり、やがて醗酵して文化になる。場所こそが文化を蓄積させる器なのだ。「場所に聞く」とは、場所の中に封じ込められているあらゆる歴史と文化を再び解き放つ試みなのだ。」

建築, monologue | Posted by simon at January 3, 2006 6:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

新しい建築を目指したい気持ち

個人的な思考性の中で、建築にどう立ち向かっていくのかを個人的な見解で考えた安中シリーズのラスト。

1-direction

・敷地全体に目指す空間の質は「匿名性のルール」を持ったもの。
・行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり 「行為という表現」をフラットに受け入れる「匿名性のルール」をもった質を「うれしい環境」と呼ぶ。
・「うれしい環境」は 誰もいない風景(=ルールが発生していない状態)⇔集団がある風景(=特別なルールをもっている状態/イベントなど)という両極を内包できる 質を持つ。両極の内に収まる曖昧な状態を 日常的な風景と呼び。中間的な層 曖昧な状態 とも言い換えられる。その日常的な風景が「匿名性というルール」を持つ。

・曖昧な空間は 屋外から屋内のグラデーションスケールが定まらない状態。
・曖昧な空間は 森の中を歩く時のように 人々に様々な要素を与えてくれる。自然に知性へ刺激をアフォードする質を持つことにより 同じ世界の中で 見え方を変える事が出来る。
・曖昧な空間は 外部空間を離散的な範疇で規定(レイアウト)する事で (グラデーションスケール)フレームを獲得出来る。よって 曖昧な空間の中で よどむこと サーキュレーションすることを 行為者が 連続的に行なっていく中で 複雑な環境の中に 「匿名性のルール」を見つけ 全てのヒエラルキーを対象とする「行為という表現」を選択し 獲得する。
・曖昧な空間は 「もりのがらす(暫定)」 と呼ぶ。(機能名)

・「もりのがらす」 には 今日の建築家が理解し使用するような意味でのプログラムは全く無く 外部に規定された曖昧な空間という質に含まれている「匿名性のルール」の中で 「行為という表現」を受容する。

・唯一の機能として ヒエラルキーの高い表現を展示できる 屋内空間を 高層化によって獲得する。
・高層化される機能は 半屋内という状態の地上から 離れて行けば行くほど より屋内的な空間へ向かうことを意味する。
・いわゆるビルディングタイプの美術館が 開くということに関連して 機能を選定する。これからの新しい美術館のありかたへ向かう。

・曖昧な空間は 予測不可能な 今後へ 解答を連ねる事が出来る。独立壁を立てれば目的空間を獲得できること。

・建築の強さは 規定される外部によって崩れない。

2- suggestion

・「行為という表現」の場
   →高い順位に芸術があり、展示できる機能を持つ。
   →「即興のコミュニティ」の中にあるコミュニケーションを記録保存し、発信する機能を持つ。
   →「もりのがらす」という機能を持たない部分に全ての表現のヒエラルキーを内包できる余地を持たせる。
・「うれしい環境」という読み替え
   →「匿名性のルール」という質をもっている。

3-extra

「匿名性のルール」について

「ミース」
コンクリート造オフィス1922
煉瓦田園住宅1923
コンクリート田園住宅1924
ドイツパビリオン1928-29
ブル丿チューゲンハット邸1928-30
1924年に建築とその時代における関係を次のように指摘している。
「ギリシャ時代の神殿、ローマ時代の会堂、中世の大会堂は私たちにとって個々の建築の作品としてよりも時代全体の創造物として意義深い。これらの建造物の名前を詮索する者があるだろうか。本来こうした建物は非人格的であり、それぞれの時代を純粋に表現したもので、まぎれもなくその時代のシンボルとして意味がある」

「現代芸術」
芸術が一部の飛び抜けた天才のものであると考えられていた時代、芸術の現場が、造り手と受け手を分離していた時代には、特権的なものであった。
例えばゲームのルール。
複数の人間によって受け入れられることなくして成立しない。実際、トランプのゲームをサッカーのゲームも、作者の名前は分からない。これほどの無名性の中にありながら、これだけ多くの人間達がそれをたのしむことが出来る。
匿名であるからこそ、誰もがたのしめるものである。
そこには社会的な公共物といしての著作権が、きちっと倫理をして組み立てられているということ。
社会に開かれた表現 自己から他者に向けて 共振する芸術のありかたを現代芸術は探っている。
もしかしたら 作り手も受けてもない平坦な 複数の人間が参加できる環境が 創造の現場かもしれない。
そのヒエラルキーのない状態をどう言った方法で解消してゆく事が出来るのかが わからない。
そのための模索が必要である。

「ミカングミ」
場はフィジカルな環境だけでも生まれないし
そこを運用するソフトだけでも
そこにいる人たちのキャラクターだけでも場は生まれない。

まじめに対応してくれたshinyaさんに感謝です。

建築, monologue | Posted by simon at July 6, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

日常を取り込む美術館を作りたい

新しい美術館(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか
アクティビティを
行為者の表現であると仮定し
その表現には優れた作品という順位の高いものもある。

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「先端芸術宣言!」東京芸大先端芸術表現科 編 岩波書店より
個人的に気になる点を抜粋

今日 表現の実物(作品)を見る行為は
順位が高ければ高いほど 極論 確認作業という次元に向かっている。(人が一つの作品を見るのに20秒とも言われている)
それは さまざなメディアを通して 作品が目に触れるようになり
実際を見るという行為以外にもインターフェイスが広がっていることが指摘できる。
(例えば モナリザを一番始めどこでみましたか?なんて質問をすれば ほとんどの場合きっと答えられない なぜなら さまざまなインターフェイスに触れ 記憶が重なり合ったものが 今 自分の中にあるモナリザであるから)
それゆえ
表現者(アーティスト)は場を作る事から
そしてどのように見られたいのかということから(または どのインターフェイスで見られたいのか?ということから)
表現が始まるという傾向に向かっている。
例えば
廃校の利用や都市の副産物に対する表現であったり
表現のフレームがさらにボーダレスになってきている カタチすらないかもしれない。
つまり 表現の上で 作り手と受け手の中でどのようなコミュニケーションを想定しているかという原点回帰が焦点となり
内向的な閉じたコミュニケーションではなく 美術が開かれた回路の上に生成されるものへ向かっている。
言うなれば
美術館という制度によって保護されなくても成立する美術を作り出す事である。
しかし 美術館から離れると言うことは 制度を失う事になり 同時に文脈を失う事になる。
それはそれほど簡単な事ではなく じりじりとハードと寄り合っていく方向を探らなくてはならない。
そして 現在の美術館を開こうとするとなかなか難しい。
それは根本的に近代の経済理論がアートという価値を飲み込んでいるからだ。
美術館の敷居は低くなりつつある一方で、公共の美術館ですら採算性を問われるようになり
美術館は価値の保存という機能から 価値の保証のための場所へと変わっている。
そんな中 質はともあれ
キュレータ中心の展示企画
アーティストを巻き込んだトーク
普段美術館へ足を運ばない人を呼び込むためのワークショップなどが
美術館で行われるようにはなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これからの美術館はどう言ったビルディングタイプへ向かうのだろうか。
さきに 述べたように全く新しいという存在は定義できない。
優れている作品を展示することも必要であろうし
表現が開くと言う事と同時に 受け手とのコミュニケーションの場として機能する事も求められる。

ここで提案する事は そのコミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所。(なのかも知れない。)?

shinyaさんよりコメント
「『新しい美術館』(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか」もちろん、よいと思う。アートに対する提案が要求されているコンペなのだから、それを外すわけにはいかない。それ以後の美術(館)をめぐる話。「表現のフレームがさらにボーダレスにな」ることから、美術館が「価値の保証のための場所へと変わ」る話は、よく言われていること。「コミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所」という提案。具体的には?

建築, monologue | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

即興のコミュニティ

1 direction

1-0 即興のコミュニティ

a コミュニティの定義
コミュニティとは自分を含む集団の事を指し
集団の他者と自分との間に同一であると認める事が出来るような特徴があれば 自己のアイデンティティと呼べる。

b ここでのコミュニティ

従来のコミュニティは 地域や家庭というドメスティックなフレームの中で強固に成り立ってきた。
質はともあれ 現在のコミュニティは個人が 想像の共同体(社会)に直接開く距離に至っている。
それは 学校であったり 会社であったり 部活動であったり
従来の物理的距離というのは 今も(IT革命後も) フラットへ向かっている。
そんな中 自己のアイデンティティを 急速的に 時には強制的に 見いだしているはずである。
ここでは それを即興のコミュニティと呼び
具体的には家族から 学校 地域 会社を指し
健全なコミュニティほど積極的に 利用できる→自己のアイデンティティを主張し合える→表現(アクティビティ)ができる場を作ろうと考えている。
014.jpg
1-1a 今回の敷地でどのような風景を想像しているか。

誰もいない風景と集団の風景という
両端を収めるものを考えている。(即興のコミュニティ=両端)

1-1b 両極(即興のコミュニティ)の中間体として、日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。
(例)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地

1-1c 即興のコミュニティ(日常的な風景/だれもいない風景/集団の風景)を 木とガラス によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景→規定される屋外(木とスケールとガラス)
・誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外。
以上 二項の関係性で建築ができることを提案する。

1-2 テーマ

「もりのがらす」

1-3 キーワード

・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によった ヒエラルキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・フラットな社会における 建築のアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

2 suggestion

屋外を規定する。
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。

3 extra

3-1ここでの建築→うれしい環境

a 人にとって
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
ここでいう建築 に向けられるアイデンティティ(自己同一性)は
行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ

b 社会にとって
誕生までは 記憶をデザインするという事があって
ここに建設されるものが消える時点で
しこりなく消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事も含まれる。(アンボンド構法/リサイクル)

3-2 アクティビティ

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まる。
例えば
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし
変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
結果的に うれしい環境になる。
行為者にも建築家にも。
015.jpg
3-4 システム

「規定される外部と曖昧な内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

shinyaさんからのコメント
言葉の説明に一つ一つ反応するよりも、後半の部分から、つくられるであろう建築の姿を想像することから始める。
「屋外を規定する。/余残(残余?)に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。」とある。つまり、敷地いっぱい、もしくはそれに近い範囲を1つの建築として領域化して、その内側に「屋外を規定する」。敷地外との領域化は、ガラスの壁をたてて行うということだね? 屋外以外の領域には「半屋外と屋内の群」が設定される。「規定される外部と曖昧な内部の関係」ともある。この「半屋外と屋内の群」が「曖昧な内部」であるならば、半屋外と屋内は何によって分けられる? 屋根は掛かっているが、半屋外は外気に触れており、屋内は外気から遮断されているとする。そうすると、その区分けはガラス(もしくは壁)で行われていると考えられる。「屋外」が屋根が掛かっていない外部、「半屋外」が屋根が掛かっている外部、「屋内」が屋根が掛かっている内部であるとすると、結局、それは3つの場所が規定されることとなる。そして、半屋外を介することで、3者が(正確には2者ずつと思うが)曖昧であることになる。とは言っても、その曖昧さがどのような方法で獲得できるのかは考えるべき点。開口部が全面的に開かれることで、外部と内部が一体となる。ガラスが透明であるから、その境界はないものと錯覚される。床や壁の仕上げが、内部と外部で同一となることで一体感を得られる、など。ありきたりの手法はいくらでもあるが、それだけではない方法がないだろうか?(その点、ミースの「バルセロナ・パヴィリオン」は巧妙である。あそこには、屋外と半屋内しかない。故に、規定されていると同時に曖昧であることを獲得している。しかも、ガラスと壁と柱で。)
この関係に、「木」と「ガラス」が加わる。木は屋外にのみ植えられるということ? なぜ木が(必ず)植えられる必要がある? 外部としての記号としての意味? ガラスの存在感(屈折、反射、透明度)を明確にするための対象物として必要? それとも、やはり屋外だけは明確に規定する必要があるということ? そうだとすると、その必要性は?
そしてプログラム。「日常的な風景→規定される屋外」と「誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外」とある。繰り返すようだけど、屋外のみが、規定されていると同時に曖昧であるということ? それとも、この2つの外部は異なるもの? 「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」は並列される3項のものなのか? それとも、「日常的な風景」と「誰もいない風景/集団の風景」は並列しないものなのか? その辺に「外部/半屋内/内部」と同様の不明解さがある。「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」という3つの風景をつくることには賛成。しかし、それらが「外部/半屋内/内部」に1対1で対応すべきなのか(そうであるならば、それを徹底すること)、それとも、それぞれの3つの項が複雑に対応することで多様な状況をつくり出すべきなのか(個人的にはこちらの方と思う)、そこが重要。おそらく、ガラスは外部を規定するとともに、内部を規定するものとして使わざるを得ない。そうなると、むしろ木についても、その規定を記号化するためのみに使われるべきではないと思う。そして、次に問題となることは、「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」の具体的なプログラムは?
「行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ」とりあえずは、ここら辺が「うれしい環境」の答? 具体的には、これらをどのように獲得する?

建築, monologue | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

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