美術館は茶碗らしい

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ゴジラはその時々の社会性を反映させながら、ゴジラというシンボルに置き換えられるかたちで戦後の高度成長に群がる人々を風刺する様で登場した。一時休眠したゴジラも冷戦期に復活し、グローバリゼーションへ向かう中で生まれた二極構造を批判し、またその眠りに入るようだ。きっと、また社会が歪み始めると眠りから覚めるのだろうと思っている。映画というジャンルの中で社会的な批判を含みながらシンボルの姿だけ変わらずに、いつづける様相は建築にも言える。建築は、ある一定のかたちを留めながら、時代性を吸収していく。冗長性が低いものは、どんどん淘汰されていく。だれも知らない渋谷と代官山の中間地点にあるGDCのオーナーが出しているお店で飲んでいるのだけど。ぽ氏を見ていて、建築家が同じ姿でいつつづける様相は、建築の姿だけに留めていて欲しい。言葉はその時々のおかれている環境を見極めていく中で、どんどん変わり続けていかないと、自分の中でも新しい方へ向かわせるきっかけを失っているのではないかと。疑いの念すら感じてしまった。きっとそうではないだろうと思うけれど。(オーディエンスは学部生がほとんどいう事実があるものの)四季の桜は完全な改修のようだ。飲んでいるとき、ドーナツで批評性が持てたのかみたいな話を僕に対しても言われたが、あれは建築家としてどういうアイデアを実践しようとしていたのか僕には写真と言葉からは読み取れなかった。もっと集中して聞いていればその時つっこめただろうと悔やまれる。なにせ、建築家が言っていることは正しいなんて勘違いしている従順な学生の目を覚まさせるには絶好の機会だったし、つぶらや氏が少し模型が曲がっているだけで美術スタッフに叱咤していたなんて話をきいていると、狂気ある感性を羨ましくも思ってしまう。美術館は茶碗なんて書かれてみたいものだ。僕のことを直感に頼っていると見抜けていない人は、きっと思考のループが閉じているんじゃないかと言ってみたり。(笑) 始めて合う人といきなり飲むときが一番感性がポジティブにフル動員されてて、いつも楽しく飲めているのは運がいいからなんだろか。次はクリスマスパーティーですね。

日記, film | at December 5, 2004 16:42


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