コンペティションをめぐる憂鬱

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完敗の結果で八代の夜にうち放された四人は、がべ氏を連行して七時間近く監禁。前回のツアーに比べると違った意味でテンションの高い、内容の拡散した話題がのどを通る焼酎を熱くした。乾さんがどうぶつのようにかわいくステージ上で跳ねている自由さに心奪われつつ、近代建築が取りこぼしてきた、何かをキープしているという言葉でわかるように、伊東氏の戦略的な一撃は、鮮やかすぎて僕には到底理解できない。彼曰く、スタイルではなく、デザインする作法に、近代を越える何かがあるのではと言いたいらしい。建築的な思考の支配がないものを指し、それがあるものと比較して、大切にする必要があると言ってしまった。デザインコンペじゃないでしょ今回は。とまで。まぁ、壇上にも上っていない僕には、なんの権利もない歯がゆさしか残らないが、もさもさしたビジュアルの一石も投じない彼らには、僕は何かを裏切られた気がしてならなかった。反骨のバネよりも、支配的な観念から見下ろしたいと、未だに思っている人には、とてつもなくつらい空間だったのは確かだった。(笑) 一転、翌日は、気分を変えて、組み体操をしたり、アイドルのおっかけをしたり、はらまわりのエネルギー消費のためにランニングしたり、それなりに満喫。集合住宅は視線くらい抜けている方がよさそうだ。しもんの作品と対峙してある工事中のユートピアが語りかけてきた。

建築 | at October 26, 2004 16:05


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» コンペ的な思考  from hy
Excerpt: 大きな倉庫の中に手を加える現場を見ているのだが、そこで使用されている仮設照明。直接見てもあまりまぶしくないわり意外と光が遠くに届く。レンタル代は月2万円程度。 「コンペ的な戦略ですべての建築が片づくわけではないけれど」 コンペで求められる思考回路としては...

Tracked: November 2, 2004 11:45 PM




Comments

もう少し話を整理しましょう。tkmy研究室では、shinyaとM1の6人でこれに応募しました。そのため、現地調査まで行いました。しかし残念ながら落選。53案中の10作品のヒアリングにも漏れるという最悪な事態でした。ぼくたちの案は、大変に有名な現地のお祭りを口実として、日常の活動を促すための場所を、商店街の中につくり出すというものでした。応募の時点で、おそらく伊東氏が拘るであろう「新しい建築」としての提案が弱いということは予想していました。《近代(建築)を超える何か》を真摯に問う氏の姿には感服するとともに、それを本質的には建築の中から超えなければいけない困難さに気が遠くなります。外部から超えたように見せること、つまり《建築的な思考の支配がないもの》が超えているように見えることは、建築実作者がヒントを得るための絶好の機会であるようにも思えますが、その作品自体が本当に建築として評価されるべきものなのかどうかは慎重に考える必要があります。ましてや、自分たちが作品を構想する場合には注意を要するだろうと思いました。何れにしても、コンペ参加者の皆さんはご苦労さまでした。

Posted by shinya at October 27, 2004 5:40 AM

「新しい建築」は評価されるべきものなのか慎重に考える必要はあると思うけれど、どのような軸で評価されるべきなのでしょうかね?目新しさ?フォルム、空間、プログラム、性能?

Posted by hy at October 27, 2004 4:59 PM

本当に「新しい建築」であるならば、それは評価されるべきものだと思います。それは絶対にそう思います。しかし、hyの言う《どのような軸》と共通すると思いますが、どのように新しいかが問題になります。つまり、建築以外の所作を建築に持ち込んだとき、それが新しく見える場合がある。それを評価できるのかどうかということ。どの方向(軸)に更新されたときに、それが本当に新しいと評価できるのか、ということが問題になりますね。

Posted by shinya at October 27, 2004 6:36 PM

評価するってことはポジティブな意識だと思うですが、新しさの評価って具体的にはどのようなものですかね?みたことない美しい形、いままで体験したことのない快適さとか?

Posted by hy at October 27, 2004 7:02 PM

「新しさの評価」がどのようなものかというのは、それがわかれば苦労しないよね、という返事になる(笑)。確かに「新しい」ということが指すものは、まだ誰も見たことがないものや、体験したことのないものだという考え方があります。それが「形」や「快適さ」かどうかはわからないけど。ただし、唯一確かだと思うことは、現在に至る建築の歴史の中で、ある作品が新しかったために、それが評価を受けるどころか、その影響によって建築のパラダイムシフトが起きたということ。それだけが事実としてあって、実際にどのようなものが「新しくて」、どのようなものが「建築」なのかというのは、ぼくにもわかりません。

Posted by shinya at October 28, 2004 5:35 AM

確かに唯一わかるのは「新しさ」によってパラダイムシフトが起きることですよね。そのパラダイムシフトは一人がその「新しさ」を評価しただけでは起こらない。沢山の人が評価することで成り立つ話だと思う。そのため具体的な「きれい」「快適」という個人的は気持ちではなかなか「新しさの評価」は具体化されず、多くの人が「?、、、!」という抽象的な気持ちがあつまってはじめてそれは「新しさ」が表現されていることになる。当然、あいまいな霧の中で発見された「新しさ」はあとあと晴れた空の中でみたら良くも悪くも感じるかもしれない。ただ「新しさ」はその霧の中でしか見つからないし、生まれないと思う。特にコンペで求められる「新しさ」は極端になってしまうのでコンペで出来た建物はあまりよくないと以前、tkmyさんがいってましたね。でも逆にコンペをやることでよくわからない霧に包まれた「新しさ」を考えるきっかけになるし、思考回路が柔軟になることはあとで実作をつくる上で有益だと思います。なんか大雑把な話になってしまうけれどご時世的に閉塞感を突破するある思い切りよさが必要なんだと思う。jtみてもマネしてでも建てたいな〜と思うものなんてあまり載っていないしね。

Posted by hy at October 28, 2004 3:21 PM

近代を背負い込んでいる氏が、近代を後ろ盾に談を踏むことは、やって然るべきものだと思っています。しかし、並んでいる実作の中にある関係性のみで、それを振りかざす行為は、理解に苦しみます。根本的な事ですが、(いや、勘違いかもしれませんが)「新しさを持とうとすること」がコンペに勝つことだとは、思っていません。今回のプレゼンテーションが、一秒で感じさせる、派手な振りかざしを持っていなかったことが敗因だったと理解しています。ただ(ミカン的な思考かも知れませんが)提案にあるようなわずかな差異に、建築をシフトさせる可能性があると真面目に思っています。まだまだ見る境地が多くあることに気づかされた事には間違えありませんが。

Posted by simon at October 28, 2004 4:39 PM

へええ、こんなサイトがあるんだ。simonからのメールで知ったんだけど、これって部外者もコメントしていいの?
「ここでの議論も、コンペ的な思考に立ち向かう戦略からすると大雑把すぎる」と、とりあえず言っておこう。

Posted by ぽ at October 29, 2004 12:37 AM

ぽさん、どうもいろいろとお世話になりました。本当に今回はお粗末さまでした。もちろんコメント大歓迎です。若干1名、これで書きにくくなる人がいるかもしれませんが(笑)。
《コンペ的な思考に立ち向かう戦略からすると大雑把すぎる》というのは承知しています。でも、これが《建築に立ち向かう戦略》についての議論であるならば(少なくともhyはそのつもりで書いていると思う)、このくらい大雑把なところから始めざるを得ないとも思います。そんなに大げさなサイトじゃないか、ここは?

Posted by shinya at October 29, 2004 5:00 AM

ぽ氏の、ここでの議論も、という表現は、特定の人物を狙い打ちしているような、違うような、でもぼくのページだから、書いちゃえ。少なくとも、僕は、ブレインストーミングより、ネガティブなことが言えて、一つの結論を導き出すアイデアを見つける行為より、リラックス出来るテンションで書いているつもりです。しかし、議論を筋の通ったものとする事には、興味があるという表現のレベルでしか理解出来ていないので、たまに素通りされて、ぷすっと刺されるのも大歓迎です。前置きが長くなってしまいましたが、今回の八代は、使い方=即効性という価値観だったのかなと、事後感を抱いております。あの言い回しに振り回されたというか、(失礼な言い方かも知れませんが)期待した結果、構築的なシステム(もしくは、可能性、新しさ)が見えづらいものを提案しました。並んでいる10作は、わかりやすいキャッチをもっていましたが、新しさより、息づかいの荒いものが目についたように思います。ぽ氏の例えで出てきた、商店の長手壁をガラスにして繋ぐ案は、確かに即効性がありますが、手を加えた後の展開が見えづらいものだと思います。結局自分の案が良いと、ループしてしまうのですが…。あの時、もっとへばりついて攻めるべきだった。

Posted by simon at October 29, 2004 12:46 PM

指摘の通り大雑把です。ここでは普段の仕事では考えにくい部分、つまり今後自分が建築をやっていく上でどのようなモノをつくりたいかと捜しものをしていますから(笑)、いつも大雑把なスタートのためなかなか話の終わりがきまらず時間ともにその話題は蒸発してしまうため焦点を少し絞らないと。当たり前かもしれないけれど[コンペ的思考]はアンビルト、ビルト問わず「新しさ」をみつけるために有効だと思いますね。

Posted by hy at October 30, 2004 4:15 PM

知っている人達が熱くコメントしているのを見て、ちょっと書き込んでみたくなりました。
shimonさん、書き込み失礼します。

「コンペ」はやはり驚かさないと駄目な気がします。「新しさ」がないと駄目ですよね。
それを求めるためにコンペをやっているのだから。
それが無ければ、今までのrefarenceからその設定条件に適合する方法を取り出して
敷地に並べればいいわけです。

でも、「新しさ」が<方法>ではなく目的>化しているのは非常に良くない気がしています。
言い換えれば、「キャッチーであること」自体が目的化してしまうこと。
その提案の良さが自分でリアルに持てていないのに、
「新しさ」を装うために、「キャッチーであること」を目指すのはあまりよくないですね。
それはshimonさんが抱いている「コンペティションをめぐる憂鬱」にも関係していると思います。

コンペで設定されている条件を紐解き、その条件の部分部分を一つ一つ検証しながら
方向性を、そして全ての要素を決定していく。
その後が重要で、その部分的回答の集積が「全体」として現れた時、
それは「提案」自体となるんですが、それは「新しさ」や「驚き」を与えるべきです。

shinyaさんがおっしゃっていたパラダイムシフトの話は本当にそうで、
何かが動くときにはそれを牽引する「新しさ」や「驚き」が必要です。
過去に起こった大なり小なりの変換点はこのようなものに支えられていると思うのです。

今回のコンペのことははっきり言って全く知らないのですが
提案に「新しさ」「驚き」がなければ、
商店街の人<使用者>を喚起させ
商店街を更新<提案の実現>させることが出来ないからです。

そして、「新しさ」「驚き」が<目的>ではなく
<方法>としてこれをバックアップするとき
提案の有効性とその「新しさ」や「驚き」は人々を魅了し続けるでしょう。

建築家の中で、僕が出会い「この人のように建築家になろう」と言う思いを
最初に抱かせていただいた方(p様←この人はこのことを否定するかもしれない)は
「他の提案を真似しても良いけど、それを超えなきゃね。
その方法を使うことで超えられる何かがあればまねしても良いよ。それを超えてね」
と言う言葉をもらったことがあるます。
「設計が<方法>として新しいかどうかは問題ではなく
最終的な提案が<目的>として新しいかどうかが問題である」と言われた気がしています。

どうなんでしょうか?(p様、誤読であったらすいません。)

好き勝手なこと書いてすいません。飲んで書いてます。

Posted by a+.sugawara at October 31, 2004 8:16 AM

なんだよ、すげーコメントふえてるじゃない。みんな熱くてすばらしいよ。おおむねsugawaraくんの意見の通りです。まあ、厳しい言い方になるけど、最終選考ではなく、一次審査で残っていないということを考えなくては。もちろん、コンペ的な戦略で建築に関わる問題の全てが片付くわけではないけど、コンペに出す以上、コンペ特有の形式を引き受けた戦略「も」包含していなくてはならないんじゃない。

Posted by ぽ at November 1, 2004 10:10 AM

ただ、悔しいという言葉に、知的な気分を載せているだけなので、エネルギーの方向は、不毛なのですが、議論のネタにコンペの形式に寄りそった戦略というのは、どこまで思考を分断するのか。気になりますね。僕の、少ない経験では、グループの舵取りに、コンペなんだからというフレーズに使っている。程度。従って、ぼくは、寄り添う行為をとることが自分に嘘をついているようで、嫌いです。最近の課題は、みな寄り添って離れるポイントを見失っていて…。まぁ。ここのコメントの書き込みのスタイルには、なじまなそうなので、具体的なネタがうち挙がったときにでも。

Posted by simon at November 1, 2004 11:09 AM