北京経由 東京

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ブログ再開。ちょうど藤森展の最終日に東京に戻ってきた。かれこれ時間が経ってしまった。新しい仕事も始めている。現代建築と距離をとりたかったという一応の念願はかなったのでないかと思っている。自分の興味を拡げていきたい。現状を破壊する手段として、外へ出るというのはいいなと思った。ただ、建築をつくる作業の中で重要であろう物語をつくるだけでなく、技術を組み立てていくことも同時にしたいと強く思うようになり、帰国することにした。北京スタイルが割とはまってしまえばそのまま突っ走ることも考えていたが、あっちが成長するのを待つより、こちらが急速に成長してしまいたい。いずれまた見に行きたいところである。

あまり整理せず、思いついたことを書いてみる。確かに目に入れたら痛い問題はあったけれども、何も無くたってともかく楽しく生活する体臭が漂う中での生活は刺激的だった。良いのか悪いのかは別にして日本の無表情な戸建てが永遠と続く風景の異様さを再認識した。変てこな様式を取り込んだ外観が並んでいる様子を見てキッチュでカワイイと見違える余裕すら得た。現代建築の分脈にほとんど犯されずにやってきた今の中国は、かつての日本がモダンという様式をとりこみはじめた時期と重なる緊張感というのか期待感があると思う。その中でも海外建築家のブランド、スタイルごと大量に持ち込んでしまう状況はアジアの中でもかなり特異だ。日本だと折衷を選択してきた。日本が明治維新以降の100年くらいで達成しようとしたことを数十年でかつ何倍もの規模でやろうとしているのだから、そんなことくらい起きてしまうのだろうという感じだった。

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個人的にはアジアに関心を向けるようになったことが大きい。ワイルドスワンから始まり、マオ、大地の子、上海ベイビー、蒼穹の昴、翔ぶが如く…。特に司馬遼太郎の緻密さには敬服する。維新前後の日本の飛躍に中国や半島が刺激を受けていた頃から、現在までを駆け上ると歴史問題も含めて、興味の底が見えない雰囲気がある。(幕政下とは違う新しい)政治が生まれ、駆け引きの中でしか起きない突発的な物事に政治の生を感じられる。僕と生まれが同じ福嶋亮大のブログが面白い。彼は、神保町の書泉で東浩紀と対談したときに始めて見て、気になってずっとチェックしてる。中国文学の話もたまにでてくる。

建築, monologue | Posted by at October 28, 2007 12:52 | Comments (3)

とりあえず一年。結構ダメなところがあっても一旦無視して耕してきたつもり

黒川紀章設計 中日青年交流中心 劇場 1987年
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さて、北京に来て一年経とうとしている。何を得たのか? 肉が付いた。いや、何も得ていない。どちらかというと焦りがある。鼻からぶっちゃけます。建築って大変だなぁってほんと思う。僕らは、きっちりつくる事を前提に教育を受けてきたし、メディアも、実際に働いている先達もそのポイントをはずしていない。なのに、何も作れない。なんなんだろうか。でも中国も面白いなと思える部分はある。フロンティアなんだから、はったりかませば良いんじゃないかという雰囲気がある。

受けてきた教育は否定できない。建築家的ジレンマを生む歴史と、巨大な社会が要請する現実的な問題。この果てしなく遠い距離にどのように折り合いを付けるのか。なんで、こんなほぼ乖離している振れ幅の中で頑張らなくちゃ行けないのか。だれかなんとかしろ。ほぼ乖離しているんだから、なにやってもいい。でも、振り切りすぎると歴史から葬られる。なにやってもいいテンションと建築家的ジレンマのどこかにスポットを当てながら、それでもやっちゃう運動体にならなければ建築家として面白くない。と思ってしまう自分。

話は飛ぶ。建築家的コンセプトがはっきり表現に出ているものでないとメディアに相手にされない。でも、それによってどのような効果があるのかはよくわからない。むしろ、よくないんじゃないかという方が多い気がする。それに嫌気がさして今の建築はダメだという人の意見はよくわかる。そのなかでも、こなれたコンセプトで、全体と局部。構想と現実をハンドリングしようとしている建築家は何人かはいる(と思う)。そのへんでどのようなストーリーを生み出すかが宿命。かつては、建築が足りなくて、建築に対する社会からの要請はハッキリしていた。今は、建築家的なしがらみにおいては達成されているポイントがあるものの、ハッキリしない時代なんだからと割り切って(言い換えると、社会とはそんなに関わり合いがあるかどうかなんてわからないんだから)建築家的ジレンマばかりを研ぎ澄ましていくことでは、社会から建築家がいらないという時代が来るんじゃないかなって想像しちゃう。今の政治家みたいにステージの上でピエロ化するのか? そもそも建築家業が儲からない図式は前々から普遍だから、勝手に減るでしょ。そう、ハッキリしない時代。東浩紀風に言えば、大きな物語(みんなで暗黙に共有しているテーマ)は崩壊した。だから、個別が強くなっていくことが社会から要請されている自然な結果であって、それぞれがどのように繋がっていけばいいのかを見いだす時代だと思う。ウェブ論があついのは、技術が新しい関係性を生むという期待があるからであって…。

で。建築家の活動を大局から外れているからつまらないと言ってしまうメディア(発言力のある建築家も同じ)はよくない。でも、社会との接点を積極的に見いださずに考現学(考古学に対する造語)的なポイントにこそ新しい何かが!というイズムもなんだか気持ち悪い。建築家がその点をないがしろにしてきたんじゃないかという、歴史を参照した結果、発生したジレンマであることは分かるけど、それだけしか研ぎ澄ますことができないというのも、どのような関係性を生んでいくのだろうか。一方で、売れなきゃ生きていけないメディアを参照しつつも、みんながおもしろいものはおもしろいとちゃんと言える風土を作って行かなくちゃならない。おもしろいんだから、発展的解釈を生めるような関係性を生み出して行かなくちゃならない。そんな活動は実現できないのだろうか。と、考えながら、アトリエ・ワン展を見ていた。

じゃぁ、僕はどのような立場で建築を建てていくポーズをとっていけばいいのか。それを見つけたい。いまは、たくさん候補を見いだしている段階だけど、ある徹底を始める段階がいつくるかも分からない。イズムとかスタイルじゃなくて、建築家が社会にどのように関わっていくという部分、すなわち型を見つけたいなぁ。

建築, monologue | Posted by at March 27, 2007 22:40

建築したくなってきた

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北京に来たのは、自分の意志というよりも、縁です。したがって、どんなことでもいいので何かを見いだしたいと考えています。唯一の武器は、建築はおもしろいと知っていること。芸術にも工学にも寄り切れない曖昧な部分に、あらゆるドラマ(解釈と実践の快楽と裏切り)を内包出来る建築と付き合っていきたい。
では、現在の自分が建築にどうやって立ち向かっていけばいいのか? イメージはなんとなくある。ざっくり言うと、きまぐれな風貌で、混乱と倦怠を手の内におさめながら、狂気ある瞬間を確実にしとめいくような態度でやっていきたい。この意味不明なパーソナリティはおそらく消えも隠れもしない。もはや生かすしかないとすらあきらめている。この際(この夏のワークショップの成果レポートを書いている)、もう少しこの問いを深めよう。

今までの建築は、テクノロジーによって人々の暮らしを豊かにするというイデオロギーを孕んでいました。逆説的には、政治/経済と対立することで、そのイデオロギーを正当化してきたともいえます。この解釈に現在的な視点を書き加えるとすれば、その対立が無効化した時代に突入していると言えるのではないでしょうか。この仮説は、モダニズムの反動ではなく、あくまで過去との地続き感を携帯しつつ、新たな展開へ向かいたいという意志による考えです。もうすこし言いすすめるならば、そのイデオロギーは個人レベルにまで解体されたという整理が適当ではないかと考えている。そして、その個人にまで還元された、個別の潮流をゆるやかに束ねる新しいテクノロジーが生まれようとしている時代に生きていると思う。文化、時代が動く瞬間は必ず訪れるのだ。

一方で、「そんな」イデオロギーに純粋ではいられないという自己矛盾を孕むことは、建築に立ち向かう上で、必然的についてまわります。その自己矛盾を超える手法を様々なレベルで検証し、実践することで、乗り越えられる。そこで、おもしろいテキストを見つけました。以下抜粋。

社会経済学に「不純物の理論」というのがあります。歴史経済学者ジェフリー・ホジソンが言い出したことだと思います。簡単に説明すると、どんな形の社会で あれ、社会が成熟していくと、その社会が抱える問題も成熟していく。その解決のために社会は純粋ではいられなくなる、つまり不純物が必要になる、というような理論です。例えば資本主義社会が成熟していくと、資本主義の枠組みでは解決できない問題が出てきて、それを抑えるために社会主義的なシステム(不純物)を採り入れる……など。

中国は、文化大革命以降、社会主義と資本主義という2つのシステムを実装してきました。社会主義ばかりではたちゆかないことに気づき、一方で社会主義的なイデオロギーによって可能な「何か」をも知っているこの国にはものすごいポテンシャルがあるのかもしれません。僕個人のレベルで感じているその凄みの一端を書いておこうと思います。建築を作る際の制度にあってないようなゆるさがあります(折衝で変更できてしまう)。言い換えると、建築行為そのものがその場所の制度を作ることと直結します。すなわち、中国的な状況によって、ものすごく建築のピュアな部分を試されている気がします。

建築, monologue | Posted by at October 22, 2006 1:45

中国での仕事は如何ですか

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まぁまぁ。うまくやっています。
きっちり物まで作りきるには、困難な環境ではありますが、日本の現在が最適ではないと言うことがよく見えます。
例えば、昨日、日本へ旅行に行っていたローカルスタッフのスライドを見ていましたが、彼は海を見たことがないと言っていて、驚いたのですが、逆に僕は砂漠を見たことがないのです。このように、自分で強く意識しなくとも、当たり前だったことが様々なレベルでここちよくも、そうでなくとも覆され、いろいろと考える機会がころがっています。
はじめは、おなかを毎週下していましたが、いつの間にか慣れました。こちらの人も日本へ行くとおなかを下すようなので、特に中国が不衛生という訳ではないようです。
真剣に考えている人もそうでない人も日本と同じようにいます。真剣に考えている人たちと一緒に何かを達成できるのであれば、まだ成長過程にある中国に、多くの伸びしろを感じます。
文化大革命以降、開放へ向かい、その教育を受けた人たちで、経済も政治も動いているので、どこへ打ち合わせに行ってもみな30代です。トップにくだらない首長がどんと座っていたりして、コンセンサスを考慮せずに全てをくつがえされることもありますが、根気よくやるしかないです。
北京オリンピック関連の事業は、すでに竣工直前を迎えている状況で、傍観するほかないのですが、この勃興している雰囲気は、なかなか味わえません。日本もかつてそうだったのではないだろうかと考えます。
余暇は、美術館に行ったり、日本から持ち込んでいる本を読んだり、100円くらいのコピーDVDを見たりして、夜はだいたいこちらで活動している日本人とよく飲んでいます。様々なジャンルの人たちがこちらに来ているので、凝縮した日本のように感じられ得した気分になります。添付した写真は、住んでいる居住区内に先週末オープンした美術館です。それでは。

monologue | Posted by at October 11, 2006 10:16

建外SOHOダウン!

こっちの写真が日常

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今日、安部さんが来中されているみたいですね。ところで、昨日はまったく仕事になりませんでした。三時くらいに突然電気が落ち、電気のメータを継ぎ足さなかったのか(中国の公共料金は全部プリペイド。携帯も。利用者を信頼していないという点である意味合理的)と、こちらではいろいろと理解を超えたことがおこるのでいちいち対応していられないという態度が身に付いてしまい、すまし顔のままバッテリーで作業を続けていたが、どうやらSOHO全体がダウンしたらしいと、ローカルスタッフがそわそわし始めた。おいおいありえんだろうと、ふと地上を見てみると変電所の周りに消防車やらパトカーが来ているじゃないか。今から、上海に持って行く書類をプリントアウトして持って行かなくてはならないのに! しかも、担当者に会いに28階から下りたり上ったりするのかよ! ぎゃー。ありえん。ということで、スタディでアウトプットしたものを整理して、ふて寝。そのうち復旧するだろうと楽観していたが、結局見込みがたたず、隣の街区のカフェで電気つくまで待機することに。階段を降りながら、タワーリングインフェルノは建築家と施主の小競り合いで結局ビルが崩壊したんだっけなぁとか、911を思い出したりと。暗い階段を手探りで降りてきたのでした。

monologue | Posted by at October 8, 2006 18:58 | Comments (2)

悩み一喝処理

付和雷同な思考で、何処へも収斂しない人。
達成感もままならないまま、目が泳いでいる人。
建築をツールとしてしか価値を見いだせない自意識過剰な人。
さまざまな顔つきをした人間が廊下をうろうろしています。
きけんです。というかうざいです。大学はスキルを身につけるための場所ではありません。
人間的な座標を定着させていく、指標を多く享受してくれる場所です。
だからいろんなことを言う人間がたくさんいます。
こんなことを書いている僕はいたって冷静です。
なぜか。広範な問題を一括し、解答する方法として、建築は非常に有効だと思っているからです。もちろん、これは僕の問題意識と達成感のバランスの中で生まれた価値観なので、全ての人に直接つながることではありません。創作活動は自問自答の中から、スタンドポイントを発見していきます。だから、悩むことは当然です。しかし、その創意が、社会に露出し、どこに着陸させるかまで考えてこそ、その妄想は達成されると言って過言ではありません。自分の価値観で言うなれば、問題の解決と新しい日常を引き出してこそ、ということです。

修士設計が終盤に入っているので、しばらく引きこもるつもりで、このエントリーは書いています。
ある後輩から留年の憂き目にあっているとメールがあり、返信したメールが自虐的ですてきなものになったので、書き留めておきます。(このメールを書くたねにしたブログのエントリー
「おそらく、最終的にはかたちにして発表するが、かたちを作ることが目的でなくてもいいじゃないか。リサーチも大事と言って、全然評価してくれないじゃないか。かといって調査レポートを超えている自信もない」
こんな回路をうろうろしていて、結果的に何もやっていない。ということになったのではないか?
ある側面からみれば、先生方は、かたちのみで結果を出してきた人たちだから、前段の部分での評価は下手にできない。でも、かたちがあって、リサーチが成り立つという道筋は確かだ。というたったひとつの論点のみが評価軸。そこを把握できないと、会話は、どんどんすれ違う。これは、僕の経験を加味して書いている。確かにかたちだけをみれば、決して満足出来るものではなかったが、獲得感はあった、だからこの先が見込めている。
難波和彦 青本往来記 2004年11月17日(水)には以下のようにも記してある。 
社会的な問題を発見すれば、そこからデザインが出てくるという幻想を持っているように思える。しかし実際は逆である。仮説的な提案がなければ社会的問題は明らかにはならない。問題がデザインを生むのではなく、デザインが問題を発見させるのだ。問題からデザインが生まれたように思えるのは、事後的な説明だからにすぎない。この落差は限りなく大きいといわねばならない。複雑な設計条件であればあるほど、単純でエレガントなデザインで応えるのが建築家の真骨頂であることをまるで分かっていないのだ。

最後に、ぼくの大好きな東浩紀を引用します。(1/22現在 リンク切れ
雑音を断ち切る
若いひとへのアドバイスですよね? それならば、学問はまずものごとを「真剣に受け止める」ことからはじまるのだ、と言いたいですね。「受け流す」ことからは始まらない。最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はおまえの意見と違うよ」と言っても、「ああそれはそいういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここに真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういう時代もあったんだな」とか「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そいういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあるとおもって読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。何にせよ、「本を読むときは真面目に読む」ということです。まぁ今の世の中だと、そういうのが非常に難しいというのも分かります。例えば、最初からAmazonのブックレビューがあって、良いとか悪いとか言っている奴がいっぱいいて、BLOGでもいろんな書評がいっぱいあって、じゃあ俺の立ち位置ってどこかなって探りながら、新刊を読むという感じになってしまっている。なかなか、「これ正しい本なんだ」と信じては本を読めなくなっている。でもそれは非常に不幸なことなのです。(ここに挙げた20冊は)そういった雑音を断ち切って読んでもらいたい(本)です。(補足:紀伊国屋の「じんぶんや」という企画の棚に平行して配布されたフリーペーパーの一節です。従い、実際はここから20冊の本の紹介が続きます。)

建築, monologue | Posted by at January 22, 2006 16:25 | Comments (2)

初夢

大阪に帰ってきている。建つ位置は千里ニュータウンの中ではないが、阪急(民間)によって生まれた沿線の住宅街に、旧住宅公団のつくった団地が唐突に挿入されている。その中でも60年代のものは取り壊しが進み、四階建てから五階建てに一新される。家の窓からも見える。それに伴い、電波障害がおこるという理由で初期投資なし。というセールスでケーブルテレビの営業がやってきて、加入し、PC、TV、電話すべてがデジタル化した。目下、そんなプロセスを抜きに、配信され続けるコンテンツを、体が求めつづけている。正月とはそういう時間を作ってくれるものと考えたほうがいいかもしれない。戦後作られた新興の街にある一軒の家の中で動物的本能のまま、過ごしている。

少し反抗してみる。団地に住んだことはないが、団地はまとまって作られるため、個別の作りこみがせめぎあう住宅街と違い、公園や商店、うっそうとした緑が生むちょっとした死角を保有している。しかし、それらは団地のためというより、常時、街に開放されており、公共のものとして無意識に共有されている。秘密の電話をかけに、団地の電話ボックスを使ったり、コープの配送されてくる食料を受け取りに行ったり、地域の英会話教室があったり、なにかと生活の中の重要な場所を提供している。公団が作ってきた住戸自体には価値を見出せず建て直すようだが、冬至四時間日照に基づき、羊羹のような住棟を配列した結果生まれた場所は、なにげによいので残すようだ。公的な顔をもって保障できる公共空間というのはこういうものなのだろうか?。毛並みは違うが民によっても2chやmixiのような公共空間は生み出されている。ただ、そのような空間は、運営する個人の身の振り方次第ではいつでも搾取可能な状況にある。どのように継承されていくか今後、見ものである。建築的なスケールでの搾取不可能、継承が保障されている状況が顕在化し、祝祭性と日常性を備え実行力のある公共空間というのは、まだまだ神社お寺にしかないといっていい。いまブログをタイピングしている場所、新興地では団地のように集まって住む結果、提供されている場所が、ある人にとっては日常であり、甘い記憶であったりする。ただ、団地が生んだ公共空間が今のままでいいとは思えない。かつ、住戸と街の関係は冷え切っているし、住戸自体も魅力的なものとは言いがたい。どこを改善すれば何がよくなるという話ではないが、もっと良くしたい。ちょっと強引だが、40代の建築家達のようにベタ(日常)な視点から発想を得ることもいいし、60代の建築家のようにメタ(制度)に訴えかけることで得る発想もいい。ただ、そこを往復するような態度が必要なんじゃないか。僕は20代。これは初夢。

この手の妄想で困ったときは歴史家に聞くのが一番。歴史家のひとり言、歴史家が語る現実、歴史家の夢を感じるテキストを抽出。「場所に聞く 世界の中の記憶」 鈴木博之 著より
「建築は空間の芸術だと言われるが、むしろそれは時間の芸術ではないか。」
「われわれはあたかも建築家が自由な発想のもとに建築を構想するかのように考える。しかし人間のあらゆる営為は政治的であり、社会的であり、それゆえ歴史的なのだ。その全体に気づかないかのようにして建築を語るならば、単なる専門バカということになろうか。」
「あらゆる場所に歴史は降り積もり、やがて醗酵して文化になる。場所こそが文化を蓄積させる器なのだ。「場所に聞く」とは、場所の中に封じ込められているあらゆる歴史と文化を再び解き放つ試みなのだ。」

建築, monologue | Posted by at January 3, 2006 6:01 | TrackBack (0)

新しい建築を目指したい気持ち

個人的な思考性の中で、建築にどう立ち向かっていくのかを個人的な見解で考えた安中シリーズのラスト。

1-direction

・敷地全体に目指す空間の質は「匿名性のルール」を持ったもの。
・行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり 「行為という表現」をフラットに受け入れる「匿名性のルール」をもった質を「うれしい環境」と呼ぶ。
・「うれしい環境」は 誰もいない風景(=ルールが発生していない状態)⇔集団がある風景(=特別なルールをもっている状態/イベントなど)という両極を内包できる 質を持つ。両極の内に収まる曖昧な状態を 日常的な風景と呼び。中間的な層 曖昧な状態 とも言い換えられる。その日常的な風景が「匿名性というルール」を持つ。

・曖昧な空間は 屋外から屋内のグラデーションスケールが定まらない状態。
・曖昧な空間は 森の中を歩く時のように 人々に様々な要素を与えてくれる。自然に知性へ刺激をアフォードする質を持つことにより 同じ世界の中で 見え方を変える事が出来る。
・曖昧な空間は 外部空間を離散的な範疇で規定(レイアウト)する事で (グラデーションスケール)フレームを獲得出来る。よって 曖昧な空間の中で よどむこと サーキュレーションすることを 行為者が 連続的に行なっていく中で 複雑な環境の中に 「匿名性のルール」を見つけ 全てのヒエラルキーを対象とする「行為という表現」を選択し 獲得する。
・曖昧な空間は 「もりのがらす(暫定)」 と呼ぶ。(機能名)

・「もりのがらす」 には 今日の建築家が理解し使用するような意味でのプログラムは全く無く 外部に規定された曖昧な空間という質に含まれている「匿名性のルール」の中で 「行為という表現」を受容する。

・唯一の機能として ヒエラルキーの高い表現を展示できる 屋内空間を 高層化によって獲得する。
・高層化される機能は 半屋内という状態の地上から 離れて行けば行くほど より屋内的な空間へ向かうことを意味する。
・いわゆるビルディングタイプの美術館が 開くということに関連して 機能を選定する。これからの新しい美術館のありかたへ向かう。

・曖昧な空間は 予測不可能な 今後へ 解答を連ねる事が出来る。独立壁を立てれば目的空間を獲得できること。

・建築の強さは 規定される外部によって崩れない。

2- suggestion

・「行為という表現」の場
   →高い順位に芸術があり、展示できる機能を持つ。
   →「即興のコミュニティ」の中にあるコミュニケーションを記録保存し、発信する機能を持つ。
   →「もりのがらす」という機能を持たない部分に全ての表現のヒエラルキーを内包できる余地を持たせる。
・「うれしい環境」という読み替え
   →「匿名性のルール」という質をもっている。

3-extra

「匿名性のルール」について

「ミース」
コンクリート造オフィス1922
煉瓦田園住宅1923
コンクリート田園住宅1924
ドイツパビリオン1928-29
ブル丿チューゲンハット邸1928-30
1924年に建築とその時代における関係を次のように指摘している。
「ギリシャ時代の神殿、ローマ時代の会堂、中世の大会堂は私たちにとって個々の建築の作品としてよりも時代全体の創造物として意義深い。これらの建造物の名前を詮索する者があるだろうか。本来こうした建物は非人格的であり、それぞれの時代を純粋に表現したもので、まぎれもなくその時代のシンボルとして意味がある」

「現代芸術」
芸術が一部の飛び抜けた天才のものであると考えられていた時代、芸術の現場が、造り手と受け手を分離していた時代には、特権的なものであった。
例えばゲームのルール。
複数の人間によって受け入れられることなくして成立しない。実際、トランプのゲームをサッカーのゲームも、作者の名前は分からない。これほどの無名性の中にありながら、これだけ多くの人間達がそれをたのしむことが出来る。
匿名であるからこそ、誰もがたのしめるものである。
そこには社会的な公共物といしての著作権が、きちっと倫理をして組み立てられているということ。
社会に開かれた表現 自己から他者に向けて 共振する芸術のありかたを現代芸術は探っている。
もしかしたら 作り手も受けてもない平坦な 複数の人間が参加できる環境が 創造の現場かもしれない。
そのヒエラルキーのない状態をどう言った方法で解消してゆく事が出来るのかが わからない。
そのための模索が必要である。

「ミカングミ」
場はフィジカルな環境だけでも生まれないし
そこを運用するソフトだけでも
そこにいる人たちのキャラクターだけでも場は生まれない。

まじめに対応してくれたshinyaさんに感謝です。

建築, monologue | Posted by at July 6, 2003 9:00 | TrackBack (0)

日常を取り込む美術館を作りたい

新しい美術館(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか
アクティビティを
行為者の表現であると仮定し
その表現には優れた作品という順位の高いものもある。

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「先端芸術宣言!」東京芸大先端芸術表現科 編 岩波書店より
個人的に気になる点を抜粋

今日 表現の実物(作品)を見る行為は
順位が高ければ高いほど 極論 確認作業という次元に向かっている。(人が一つの作品を見るのに20秒とも言われている)
それは さまざなメディアを通して 作品が目に触れるようになり
実際を見るという行為以外にもインターフェイスが広がっていることが指摘できる。
(例えば モナリザを一番始めどこでみましたか?なんて質問をすれば ほとんどの場合きっと答えられない なぜなら さまざまなインターフェイスに触れ 記憶が重なり合ったものが 今 自分の中にあるモナリザであるから)
それゆえ
表現者(アーティスト)は場を作る事から
そしてどのように見られたいのかということから(または どのインターフェイスで見られたいのか?ということから)
表現が始まるという傾向に向かっている。
例えば
廃校の利用や都市の副産物に対する表現であったり
表現のフレームがさらにボーダレスになってきている カタチすらないかもしれない。
つまり 表現の上で 作り手と受け手の中でどのようなコミュニケーションを想定しているかという原点回帰が焦点となり
内向的な閉じたコミュニケーションではなく 美術が開かれた回路の上に生成されるものへ向かっている。
言うなれば
美術館という制度によって保護されなくても成立する美術を作り出す事である。
しかし 美術館から離れると言うことは 制度を失う事になり 同時に文脈を失う事になる。
それはそれほど簡単な事ではなく じりじりとハードと寄り合っていく方向を探らなくてはならない。
そして 現在の美術館を開こうとするとなかなか難しい。
それは根本的に近代の経済理論がアートという価値を飲み込んでいるからだ。
美術館の敷居は低くなりつつある一方で、公共の美術館ですら採算性を問われるようになり
美術館は価値の保存という機能から 価値の保証のための場所へと変わっている。
そんな中 質はともあれ
キュレータ中心の展示企画
アーティストを巻き込んだトーク
普段美術館へ足を運ばない人を呼び込むためのワークショップなどが
美術館で行われるようにはなった。
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これからの美術館はどう言ったビルディングタイプへ向かうのだろうか。
さきに 述べたように全く新しいという存在は定義できない。
優れている作品を展示することも必要であろうし
表現が開くと言う事と同時に 受け手とのコミュニケーションの場として機能する事も求められる。

ここで提案する事は そのコミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所。(なのかも知れない。)?

shinyaさんよりコメント
「『新しい美術館』(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか」もちろん、よいと思う。アートに対する提案が要求されているコンペなのだから、それを外すわけにはいかない。それ以後の美術(館)をめぐる話。「表現のフレームがさらにボーダレスにな」ることから、美術館が「価値の保証のための場所へと変わ」る話は、よく言われていること。「コミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所」という提案。具体的には?

建築, monologue | Posted by at July 3, 2003 9:00 | TrackBack (0)

即興のコミュニティ

1 direction

1-0 即興のコミュニティ

a コミュニティの定義
コミュニティとは自分を含む集団の事を指し
集団の他者と自分との間に同一であると認める事が出来るような特徴があれば 自己のアイデンティティと呼べる。

b ここでのコミュニティ

従来のコミュニティは 地域や家庭というドメスティックなフレームの中で強固に成り立ってきた。
質はともあれ 現在のコミュニティは個人が 想像の共同体(社会)に直接開く距離に至っている。
それは 学校であったり 会社であったり 部活動であったり
従来の物理的距離というのは 今も(IT革命後も) フラットへ向かっている。
そんな中 自己のアイデンティティを 急速的に 時には強制的に 見いだしているはずである。
ここでは それを即興のコミュニティと呼び
具体的には家族から 学校 地域 会社を指し
健全なコミュニティほど積極的に 利用できる→自己のアイデンティティを主張し合える→表現(アクティビティ)ができる場を作ろうと考えている。
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1-1a 今回の敷地でどのような風景を想像しているか。

誰もいない風景と集団の風景という
両端を収めるものを考えている。(即興のコミュニティ=両端)

1-1b 両極(即興のコミュニティ)の中間体として、日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。
(例)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地

1-1c 即興のコミュニティ(日常的な風景/だれもいない風景/集団の風景)を 木とガラス によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景→規定される屋外(木とスケールとガラス)
・誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外。
以上 二項の関係性で建築ができることを提案する。

1-2 テーマ

「もりのがらす」

1-3 キーワード

・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によった ヒエラルキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・フラットな社会における 建築のアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

2 suggestion

屋外を規定する。
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。

3 extra

3-1ここでの建築→うれしい環境

a 人にとって
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
ここでいう建築 に向けられるアイデンティティ(自己同一性)は
行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ

b 社会にとって
誕生までは 記憶をデザインするという事があって
ここに建設されるものが消える時点で
しこりなく消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事も含まれる。(アンボンド構法/リサイクル)

3-2 アクティビティ

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まる。
例えば
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし
変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
結果的に うれしい環境になる。
行為者にも建築家にも。
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3-4 システム

「規定される外部と曖昧な内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

shinyaさんからのコメント
言葉の説明に一つ一つ反応するよりも、後半の部分から、つくられるであろう建築の姿を想像することから始める。
「屋外を規定する。/余残(残余?)に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。」とある。つまり、敷地いっぱい、もしくはそれに近い範囲を1つの建築として領域化して、その内側に「屋外を規定する」。敷地外との領域化は、ガラスの壁をたてて行うということだね? 屋外以外の領域には「半屋外と屋内の群」が設定される。「規定される外部と曖昧な内部の関係」ともある。この「半屋外と屋内の群」が「曖昧な内部」であるならば、半屋外と屋内は何によって分けられる? 屋根は掛かっているが、半屋外は外気に触れており、屋内は外気から遮断されているとする。そうすると、その区分けはガラス(もしくは壁)で行われていると考えられる。「屋外」が屋根が掛かっていない外部、「半屋外」が屋根が掛かっている外部、「屋内」が屋根が掛かっている内部であるとすると、結局、それは3つの場所が規定されることとなる。そして、半屋外を介することで、3者が(正確には2者ずつと思うが)曖昧であることになる。とは言っても、その曖昧さがどのような方法で獲得できるのかは考えるべき点。開口部が全面的に開かれることで、外部と内部が一体となる。ガラスが透明であるから、その境界はないものと錯覚される。床や壁の仕上げが、内部と外部で同一となることで一体感を得られる、など。ありきたりの手法はいくらでもあるが、それだけではない方法がないだろうか?(その点、ミースの「バルセロナ・パヴィリオン」は巧妙である。あそこには、屋外と半屋内しかない。故に、規定されていると同時に曖昧であることを獲得している。しかも、ガラスと壁と柱で。)
この関係に、「木」と「ガラス」が加わる。木は屋外にのみ植えられるということ? なぜ木が(必ず)植えられる必要がある? 外部としての記号としての意味? ガラスの存在感(屈折、反射、透明度)を明確にするための対象物として必要? それとも、やはり屋外だけは明確に規定する必要があるということ? そうだとすると、その必要性は?
そしてプログラム。「日常的な風景→規定される屋外」と「誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外」とある。繰り返すようだけど、屋外のみが、規定されていると同時に曖昧であるということ? それとも、この2つの外部は異なるもの? 「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」は並列される3項のものなのか? それとも、「日常的な風景」と「誰もいない風景/集団の風景」は並列しないものなのか? その辺に「外部/半屋内/内部」と同様の不明解さがある。「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」という3つの風景をつくることには賛成。しかし、それらが「外部/半屋内/内部」に1対1で対応すべきなのか(そうであるならば、それを徹底すること)、それとも、それぞれの3つの項が複雑に対応することで多様な状況をつくり出すべきなのか(個人的にはこちらの方と思う)、そこが重要。おそらく、ガラスは外部を規定するとともに、内部を規定するものとして使わざるを得ない。そうなると、むしろ木についても、その規定を記号化するためのみに使われるべきではないと思う。そして、次に問題となることは、「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」の具体的なプログラムは?
「行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ」とりあえずは、ここら辺が「うれしい環境」の答? 具体的には、これらをどのように獲得する?

建築, monologue | Posted by at July 3, 2003 9:00 | TrackBack (0)

がんばって建築に近づこうとしている

多様な切り口については
建築の社会における立場で考えれば
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
結果的にいくらも切り口が見つかる。
思考の切り口は一つで良いかと。
切り口とは集約される方向ではなく
スタートに過ぎないとして。

話をすこし遠回りさせる。
今回の敷地でどのようなシーンを想像しているか。
固定的な機能が無いに等しいので
誰もいない風景と集団の風景という
両極を収めるものを考えている。

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。

日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地
などたくさん。

日常的な風景を 木と建築 によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景という屋外(木とスケールとガラス)と
・誰もいない風景 と集団(イベント時)の風景が 可能な 屋内と半屋外。
以上の関係性で建築ができることを提案する。

切り口として
「もりのがらす」

さいごに うれしい環境について
出来上がるまでは 記憶をデザインするという事があって
うれしい環境とは ここに建設されるものが
消える時に しこりなく 消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事。

今 考えている設計の手順 は
先に外部空間をデザインして
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく
イベントが無い時は (ガラスの)森の中を歩く (ガラスの)森を抜けたところの広場で遊んだりできる。ガラスの塔に登ってランドスケープを眺める事が出来る。
一人で占有できる うれしい環境を目指す。

イベント時は 屋外 屋内 半屋外 を横断しながら行なう。

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まり
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし 変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
ものすごくうれしい環境になる。 行為者にも建築家としても。

「もりのがらす」
木が生える事によって すでにコンテクストがそこに含まれたような錯覚に陥る。
木があっての建築でも
ガラスがあっての建築でもない
積極的な建築が行為者に場を選択へ向かわせる。

キーワード
・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によるヒエラキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・ボーダレスな社会の中でのアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

結果的に「外部と内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

建築, monologue | Posted by at July 2, 2003 9:00 | TrackBack (0)

「極を抱えれば」と思っている

やはり 今回建築行為(=うれしい環境行為)を行なうことによって
なぜ ユニテを見て建築がいいと思ったのか と言ったところのつまりを
すこしづつ クリアーにしていきたいと思っている。
バカにされながら貫いた精神
不評だった異質感
よかれとコピーされる形態
今でも使われている存在感
この両極端の評価というものが収まりきる建築って?

>「家のところにしか 木が立っていない。」これは完全に誤解していました。そうだとすると、ここではインテリアの表現が重要であったはず。これを「うれしい環境」の1つのスタディと考えた場合、建物の中に取り込まれている樹木が歪んで見えることにどのような意味を持たせているのかが気になる。むしろ、素直に周囲の風景が歪んで見える装置という方がわかりやすい。平面が複雑(ランダム)な割には、断面が単純。そのヒエラルキーも気になる。

まずなぜ 木をたてたのか
木がたっていないと この建築は成立しない。
構造的にもからまず さけるようにプランが構成されている。
木に求めた質は いわゆるたたずまい。
作為的に新しく植えられようとも
もともと生えていようと
どちらに見えても良い。
その木の配置によって 場が構成されていく感覚を 直で表現したかった。

たてもの の中に 見える木と人と家具と影と光の映像が 空間を包むもの全てに写り込みそれが 変容し続けるテクスチャーになる。
周辺は 都市の中でも 山の中でも よかった
でも 僕らのイメージが昇華できる場所は 湖面の上です。
変容し 続けている形態の映像が水に反射し 見る人の印象を揺らがし続けている。

白井晟一の 直方体に円柱を差し込んでるヤツなんだったけなぁ
あれも 水の上にあって。

プランとセクションのヒエラルキーの話は
まず 空間に順位をつけたくなかったので
正方形に円を陥入させるという 縦横という概念が無いもので平面を構成し
家というものは 入り口の位置によって 順位付けがされてしまうと仮定をして
スラブを浮かせ らせん階段にした。 そのらせん階段も もちろん木に絡まっている。
そしてプロポーションで立面の 顔を決め
その結果 セクションが単純になっている。
ようするに この家はプランを決めた時点で設計が終了している。
セクションは無限に高くても 無くてもよかった。

>スケールの話は今の時点ではまだ重要ではないかもしれない。そういう問題があるということを頭に留めておく必要はある。

らじゃ。
ガラスの使われ方で 好きなものが なかなか無くて
自分が 自分でやりたい。

>「空に浮くプログラム」前段と同様。これでは当たり前(葛西のレストハウスか?)。

葛西は間違いなく頭に浮かべながら書いていた(笑)

建築, monologue | Posted by at June 23, 2003 18:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

ひろげたい視野

>もう1つ、妹島さんの横浜にある高齢者施設のファサードの考え方。
あれはちゃんと使われているのかなぁ?

>光源氏に関しては、確かにプランが類似しているが
ラカトンバッセルは林の中に建っているけど
光源氏の家(=空白の家と呼んでいる)は 家のところにしか 木が立っていない。
空間を目的としたのでなく
空間を包むものすべてを目的としたところ
包むものを 厚みの不均質な透明なもので構成した結果
表情が一定しない空間と外観が得られた。

>ガラスとガラスの間に、それらを支持するものが必要となる。 それはそうなんだ。
スケールを大きくしたり小さくしたりすることを
意図的にエスキスすることで
視野の範囲を狭めないように努力している。

>ミースのやったことは、
余談です。(笑)

>とにかく、次の要素は?

1 コンクリート スティール ガラス
リサイクルできない最も耐用年数の短いコンクリート。
リサイクルできるスティール。
耐用年数が最も長い リサイクルできるガラス。

ニュータウンはいずれ無くなる。
耐用年数が長く リサイクル可能なものだけで構成したい。
アンボンドの構法を提案するのも良いかも知れない。

2 風景スケールとヒューマンスケール
ガラスに透明性だけを求めるという手法ではなく
ガラスも当然汚れる。
原点復帰しても 汚れたままでも
うれしい環境を成立しているものを目ざす。

→風景のスケールならば汚れは消える。

→ヒューマンのスケールなら汚れの方が目に付く。
 本当は汚れている石や木に もたれ掛かるような感覚の ガラスの質感を追及する。

3 シングルとダブル
ガラスという素材は熱負荷が高く
特に日本のような気候の変化に影響を受けやすい。
その結果

内を構成する時
ガラスそのものという 表現は皆無に近い。
ガラスと木を組み合わせる
ルーバーを付ける
ガラスを二重にして間に空気を入れるなどのように
ガラス単体での表現ではなく
サンドイッチされたり
対になったりする。
→二重のガラスはうるさい。青みががり質感が変容する。
→いわゆる室を構成する部分をどうするか?
→ガラスに陥入するプログラムは熱負荷が最も軽視できるもので構成する。
→(ただ 安中の場合 軽井沢のように 冬季 極寒にはならず
東京のように 夏季 灼熱にはならない。→穏やかな気候をうまく利用したい。)
嘸
外を構成する部分
→一枚で構成する。ヒューマンスケールを無視できる。たちさえすればいい。

一枚に見えるガラスの立面を
風景スケールの質感と ヒューマンスケールの質感の ゾーニングをする

4 ガラスに設けられる空に浮くプログラム
ランドマーク
敷地内にまったく均質に並ぶ機能を規定する空間アドレス性
展望/眺望
気候に左右される展望カフェ/レストラン
階段
すべり台
エレベーター

5 ガラス自体に設けられるプログラム

強い陽射しをカットし 涼をもたらす
イベント時の映像の投影
夜間の照明効果

建築, monologue | Posted by at June 23, 2003 12:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

好きかもしれない建築写真

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>これは写真のようにフレーミングされた風景を示したものですね? 実線のガラスと破線のガラスの違いは?

 (人々が見えること)
 山並みが見えること
 ガラスが見えること
 人々と山並みとガラスが重なって見えること
 (人々が強調されること)
 山並みが強調されること
 ガラスが強調されること
 (光の中に人々が引き込まれること)
 光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
 光の中にガラスが溶融すること

視界の中に広がるイメージ(印象)の中で
フォーカスされる部分(実線)と 
ピントが飛ぶ部分(点線)と
ゆがんで見える部分(複線)が組み合わさり
行為者が活動するたびに 連続的に絵がすりかわり
「うれしい環境」のイメージが限定されない。

この四枚の絵に加え
人々というパラメータを視野に入れると
「うれしい環境」すべてのピントがボケる。

写真家 杉本博史の シーグラムビルやWTCのように

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建築, monologue | Posted by at June 23, 2003 8:00 | Comments (1) | TrackBack (1)

ガラスが好き

ガラスの壁をたてようとしているわけではない。
ガラスをたてようとしている。
いわば日本の伝統的な建築である紙・襖・障子・のれん・格子という
曖昧に区切る素材の質感をガラスに求めている。

ガラスにおける曖昧さ
それは 
時に 傲慢にそそり立つようであったり
時に 透明で見失うくらいピュアであったり
時に 半透明で美しいちらつきをもたらしたり
時に 景色を写り込ませる
ガラスという素材自体の豊かさを示す。

ガラスという素材と戦った ミースという建築家がいる。
彼はスカイスクレイパーで宙(そら)に溶けているような溶融するガラスを用い
その行為がバルセロナパビリオンまで続く。
その後 シンケルを模倣したとまで言われる クラシシズムに行き
ソリッドな壁に戻っていく。
私は
そのどちらの表情とも 同時に獲得する事が 出来る質感を求めている

一年前のサイトから移しているのだけど。今、読むとぞくぞくする(笑)

建築, monologue | Posted by at June 22, 2003 22:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

木が突き抜けている家

>参照可能と思えるもの。妹島さんのヤコブセンの展示で製作したアクリルのオブジェ。同じく、妹島さんの「ひたち野リフレ」のガラスルーバーのファサード。原広司さんの「梅田スカイビル」のガラスファサードによる、空中庭園のアイディア。

せじまさんのはヤコブセンの記念展覧会のやつですよね。はらひろしは 調べる価値がありそうですねぇ。

>「厚みの違う一枚に見えるガラス」の指すもの。

ガラスの厚みを不規則にすることによってガラスを通した景色がゆがむことの面白さに光源氏のコンペの時からはまっていて↓
005.jpg
↑このプランを曽我部さんに見せたらこの↓下の写真のやつに似てるっていわれた訳です(lacaton&vassal/fr)
006.jpg007.jpg
展開エレベーション↓
008.jpg
>「厚みが違う」部分を持つ「一枚」の「ガラス」? 
>「厚みが違う」部分を持つが、「一枚」の平滑な面に「見えるガラス」? 
>「厚みが違う」複数枚の「ガラス」であるが、「一枚に見えるガラス」?

木割りとでも言うのでしょうか。一枚のガラスで構成することは不可能な大きさなのでガラスが分節されていく。その分節しているガラスそれぞれが 厚みの違うものによって構成されていて 全体の一枚のガラスとして 表情を豊かにする。その一枚のガラスが 部分で抜けているところもあれば。ボリュームが陥入していたりという話。

建築, monologue, portfolio | Posted by at June 22, 2003 20:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

風景のフレーミング

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建築, monologue | Posted by at June 22, 2003 19:55 | Comments (1) | TrackBack (1)

厚みの違うガラス

003.gif
厚みの違う一枚に見えるガラス

建築, monologue | Posted by at June 21, 2003 12:30 | Comments (1) | TrackBack (0)

imageの提出

駅をはじめ 住宅 商業施設 公園
そして 今回の計画全てにおいて
どういった場をつくろうかという話には そもそも関わることができない
これらが相互に関連せず無秩序に配置されている風景が
傲慢に出来上がらんばかりの舞台の上で
踊らされるわけには いかない。

この舞台を「いわゆる建築」のコンペティションではないと読み替える。
新しい もの こと を創造しようという機会であり
(都市計画による 建築家による 土木による ランドスケープやら 建築やらの)フレームを越えた
横断的な解釈と提案が 鮮やなインスピレーションを与える。
その解釈と提案を 「うれしい環境」と呼ぼう。

ここにガラスをたてる。

風景を 描こうとしているだけ ではない。
光景を 望もうとしているだけ ではない。
建築を 構築しようとしている のではない。
介入することにより 人々に 大地に 建築に「うれしい環境」を望み
記憶の中をデザインしようとしている。

美しい山並みを望むことが出来る敷地において
人々が見えること
山並みが見えること
ガラスが見えること
人々と山並みとガラスが重なって見えること
人々が強調されること
山並みが強調されること
ガラスが強調されること
光の中に人々が引き込まれること
光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
光の中にガラスが溶融すること
晴れだろうと 雨だろうと 曇りだろうと 雪の日だろうと その日その日の「やさしい環境」を 描く。

その全てを「やさしい環境」と呼び ガラスをたてることによって獲得する。

すべてが曖昧なバランスの中で
ここ(安中)という そのもの(アイデンティティ)として 人々に美しい印象を与える。

建築, monologue | Posted by at June 21, 2003 12:00 | Comments (3) | TrackBack (0)

first impression

001.jpg
現状
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介入後

遺構, 建築, monologue | Posted by at June 20, 2003 12:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

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